第55回全国民俗芸能大会特集

節田まんかい・八月踊り・しまうた

小川 学夫

はじめに

 節田は奄美大島の北端に位置する鹿児島県大島郡笠利町の一集落である。人口およそ三八〇人、戸数二三〇軒ほどで、伝統的な共同体行事を維持、継続するのに十分な意識とエネルギーを持った地域だといってさしつかえない。

 さて、第五五回全国民俗芸能大会で演じられるのは「節田まんかい」「八月踊り」「しまうた」の三つの分野であるが、このうち「節田まんかとは、地名が冠されているとおり、節田だけに残る独特な芸能である。対して、「八月踊り」の方は、名称は異なるが、同じ奄美諸島に属する喜界島、徳之島にも古くから伝わってきた芸能である。残る「しまうた」は、いまや沖縄までを含めた琉球弧全域にまたがる民謡の呼称になっている。しかし、その実態は島により、集落によりかなり異なっているといわなければならない。

 多くの研究者が指摘するところだが、南島でもとりわけ奄美では、芸能を含む伝統的行事のほとんどは集落単位で行われてきた。従って、集落こそ一つひとつ独立した文化圏といってよく、「奄美では」とか、「奄美大島では」とひっくるめていえない点がきわめて多いのである。以上のことを前提として、奄美全体と節田集落とを見渡しながら、三ジャンルの芸能を紹介することとしたい。

鹿児島県地図(PDF、P.38参照) http://www.amakyoken.com/simauta/pdf/minzokugeinou.pdf

一 節田まんかい

 「まんかい」とは、「招く」という意味で、もとをたどれば、神を招くということになるのであろうが、ここでは招くような手振りから付けられた名前といってよいだろう。事実、この芸能では男女が向かい合って並び、招くような手振りをしながら歌掛けを続けていく。神を招くという意識はほとんど見当たらない。その点、後にも少しく述べる隣町、龍郷町秋名集落に伝承される「秋名まんかい」とは大きく違うところである。

 節田まんかいが行われるのは、主に正月である。戦前までは、大晦日からはじまり、二日にまで及び、また、十五日、十六日などの夜にも行われたようである。近年は正月十五に決めているとも聞いた。

 行われる場所は、一般の家だが地域の公民館などが会場になる場合が多い。図(PDF、P.39参照)のように複数の男女歌い手と、伴奏楽器として三線(さんしん)がそれに加わる。

 今日、節田まんかいの歌としては、「正月まんかい」「(しゅ)みち長浜」「前徳主(まいとくしゅ)」「うんにゃだる」の四曲が残っている。

 最後に「六調」という手踊り歌もでるが、これは奄美では歌、踊りが出る席では欠かせないもので、その座を締めくくる歌であり踊りである。節田まんかいの専用歌ではない。
 最も重要な歌は「正月まんかい」である。この芸能自体が正月と密接に結びついていることを示している。主な歌詞だけをあげておこう。

 ○正月ちば正月 今日がでぬ正月
  明日(あちゃ)がれむ()らぬ 来年(やね)ぬ来ねだ

 (正月と言えば正月 今日までが正月だ 明日まではない 来年が来なければ)

 ○元旦ぬ(しかま) 床向こて見れば
  裏白(うらじる)とゆじる (ゆわ)(きゅら)らさ

 (元旦の朝 床の間に向かって見れば 裏白と譲り葉の
  祝い飾りのきれいなこと)

この歌では、招きの手振りになる前に、お互いがしばらく拍手をする。やがて、体全体を左右に振りながら、両手で波を描くように左右に振る。今は、歌詞もあと二、三番で終わってしまうのでアップテンポになることはないが、かつては曲の早まりとともに興奮するものだったという。

 二曲目「塩道長浜」は悲劇を歌った歌ではあるが、曲調はどちらかといえば賑やかである。奄美大島の加計呂麻のある集落では、なぜかこの歌を正月専用の歌にしているのとどこかで関係しているのかもしれない。

 ○塩道長浜(しゅみちながはま)に (わらべ)泣きしゅたが
  うれや誰がいしよ けさまつ汗肌(あしはだ)

 (塩道長浜〈喜界島の浜の名前〉に童の亡霊が泣いている。それは誰のため。
  ケサマツという魅力ある女のせいだ。*ある男がケサマツという魅力的な
  女に強引に逢引を迫ったので命を落とす羽目になり、その亡霊が浜で夜な夜な
  泣いていた、という伝説を歌ったもの)

 これが打ち出しの歌詞であるが、あとは即興的にいろいろな文句が続いていく。なかには、次のような祝いの歌詞もある。

 ○今日ぬ誇らしや 何時(いち)より勝り
  何時も今日ぬ(ぐとう)に あらち(たぼ)

 (今日の誇らしさは 何時よりも勝って素晴らしい
  何時も今日のように あらせて下さい)

 この曲では、拍手をしたり、両手を自分の肩に持ってきたり、向かい合う相手の手と合わせる所作が出てくる。筆者が調査した平成三年一月のときは、曲の途中から歌っている人たちが興奮状態になって、みんな中腰になるか、立ったのと同然の状態になった。これが本来的な形ではないか、と思ったものである。

 三曲目「前徳主」は、前徳という男性を面白おかしぐ歌ったもので、詞型も前の二曲とはいささか違ったものである。「アジョソ ワラベンキャ」というハヤシコトバが入るのも特徴で、他地域では「アジョソ」などとも呼ばれる曲の流れである。歌詞にハャシコトバも添えて歌われるままに記す。

 o前徳主一番舟ぐわぬ上げ下ろし
  アジョソ ワラベンキャ

 (前徳主〈主は上層の男子につける敬称〉一番舟ぐわ〈接尾辞〉の上げ下ろし。
  *「上げ下ろし」とは舟を海から浜に上げたり、海に下ろすことだろうか)

 ○上げ下ろし 二番舟ぐわぬ 上げ下ろし
  アジョソ ワラベンキャ

 (*これも全体、意味不詳)

 調査時には男女とも完全に立ったまま、拍手をしながらこれを歌って、手踊りの「六調」に移ったが、かつてはまだ歌詞が豊富にあって、座ったまま掛け合いをしたことは確かのようである。

 もう一曲「うんにゃだる」という女性の名が曲名になった歌があるが、私の調査時には歌われなかった。これは、他地域では、後に述べるしまうたによく歌われる一曲である。節田まんかいとしての「うんにやだる」を歌詞だけ採集できたが、以下の通りである。

 ○うんにゃだるや(ふれ)(むん)じゃ 乳呉(ちこ)(くゎ)やはん投げて
  大和(やまと)ぞれするうち 赤木名走(はーきなはり)りくらて

  (うんにゃだるは馬鹿者だ。乳飲み子を投げ捨てて、本土の人と淫売し、
   薩摩から来た殿様のいる赤木名に走っていったということだ)

 歌詞の内容が内容なので、今はあまり歌いたがらないのかもしれないが、こんなうわさ話が歌で歌われたという点でも興味あることである。

 以上、節田まんかいの芸態、それに伴う歌謡のあらましを述べたが、以下、周辺の関連芸能についても述べておこう。

 まず思い出すのが、幕末、奄美大島に流された薩摩藩士、名越左源太が轡き箸らわした「南島雑話」のなかに、一組の男女が対座し、互いに手を合わせるような所作をしながら、歌掛けをする図と説明があるということである。(平凡社東洋文庫「南島雑話 2」九二・九三頁参照)そこでは即興をむねとし、途絶えることなく次々歌の文句を出せるのが、勝ちで、口ごもって出せなくなってしまうのが負けなのだと書いてある。節田まんかいの場合、集団と集団の掛け歌(奄美では「ぼれうた(群歌)」といっている)ではあるが、かつての歌は「まんかい」あるいは「手合わせ」の所作を伴うのが一般的ではなかったかと考えられるのである。

 なお、現在、節田地区周辺に伝えられる類似芸能を見てみると、笠利町用集落に「しゅんかね」と呼ばれるもの、同町大笠利に「正月まんかい」がある。前者「しゅんかね」というのはそこで歌われる曲の名前である。大笠利のそれは節田まんかいのなかの一曲と同名である。ともに座ったまま男女がまんかいの手振りをしながら踊るという点で、姉妹芸能であることは明らかである。

 曲種について、本稿では詳しくは述べられないが、一言だけ記しておきたい。「正月まんかい」は歌詞だけを記すに留めたので、これでは全く窺い知れないが、実際の歌唱における歌詞反復などをみていくと奄美大島南部、加計呂麻島で今も祝い歌として残る「ほこらしや節」と繋がるということも重要な点だと思う。

 また、先にも少し述べたが、国指定の無形文化財になっている龍郷町に伝わる「秋名まんかい」との関連に就いてもふれておく。このまんかいは、南島の夏正月ともいうべき旧暦八月の「あらせつ(新節)」に行われるもので、これは西東、あるいは海の彼方から「いなだま(稲魂)」を招く儀礼である。その儀礼の一部である踊りの所作の中に、明らかに招く手振りが出てくる。従がって、秋名まんかいの「まんかい」には、実質的に稲魂を招く意味と、招くような手振りの二つの意味が込められていることは確かであろう。

 それに対して、節田まんかいの「まんかい」は、突き詰めていけば正月を招いたり、あるいは歌う相手の魂を「乞う」意味を有していたのかもしかもしれないが、今日の伝承者たちの心性は「招く手振り」という方に傾いているものと思われる。

 ともあれ、節田まんかいは往時の、歌の歌われ方というものを髣髴させてくれる貴重な芸能であることは強調しておきたい。

二 八月踊り

 名称は異なるが、南島の夏の折り目、旧暦七月か、八月に集団で踊られる歌を、まとめて「八月踊り」と呼んでおく。その分布は、奄美諸島のうちでも奄美大島から加計呂麻島、喜界島、徳之島までで、沖永良部島、与論島には伝わっていない。その理由ははっきりしていないが、沖縄の方にも「うしで−く」などのような系統を一にする芸能があることを考えると、琉球弧全体にあったと考えるのが妥当である。いつの時代にかこのこ島から姿を消えてしまったと考えるのが自然かと思われる。

 踊る期日は、島や集落によってことごとに違うが、奄美大島、加計呂麻島、喜界島では一般的に()八月といわれ三つの行事に踊られる。先ずやってくるのが八月初めのヒノエの日で、これを「アラセツ(新節)」という。次にやってくるミズノエの日で「シバサシ(柴差し)」、ついでキノエ・ネの日「ドンガ(意味不詳)」(「ドンガン」などというところもある)である。最後の日だけは六〇日を一巡りとする干支による日付であるから、遅ければ旧暦十月であることもあり得る。

 一方、徳之島のやや東部よりのいくつかの地域は七月を折り目としている。盆(旧七月十五日)後の初ヒノエの日を「はまおり(浜下り)」と称し、実際に浜に出て飲食するのだが、昔は、その前夜から浜に出て宿りをするのが普通だったともいう。その行事の間歌い、踊られるわけだが、踊りの名も「夏目踊り」「うんめ(折目)踊り」「浜踊り」「千人踊り」などと多彩である。

 このように「八月踊り」系集団歌舞は、八月であれ、七月であれ、「夏の折目」に実修されるというのが重要な条件であるが、このほか旧暦七月十五日の盆や、八月十五夜、九月九日の重陽の節句に踊るところも全域的にかなり見られることを付け加えておきたい。いずれにしても、この日だけ踊るというところと、期間の間、何回か踊るというところがある。

 ついでに踊る時間帯は、日が沈んだ夜間、一晩踊り明かしたというところが多いが、今日、わずかだが昼間にやるところもないではない。風紀上の問題かなにかがあって、こう決められたのであろう。
 次に、踊られる場であるが、これも一様ではない。浜、宮といった聖なる場、単なる広場など一箇所で踊られるところと、集落じゅうの家を一軒、一軒廻ってその庭で踊るところがある。後者を「やまわり(家まわり)」などという。

 奄美大島や徳之島の一部では、浜辺で踊った後、踊りの列が村落内の広場に移ったり、家廻りとなるところがあるが、このことは八月踊りの本質を考えるのに重要な点であると私は考えている。

 問題は、八月踊りがいったい何のために踊られるかということである。これについての決定的な答えはまだ出ていない。八月踊りで歌われる歌詞や人々の言伝えから「豊作感謝」「豊作祈願」「集落、および集落民の安寧願い」「火除け祈願」等々があがってくる。しかし、どれにも決定的証拠となるものはない。批判を承知しながら、私の仮説を轡くなら、新しい年に当たって、海辺で彼方の神々を招き、その神々の力を一軒、一軒、家々に分配して行く行事だったのではないかということである。

 ここでやっと芸態にはいる。参加するのは、集落の老若男女であるが、道行は別として、男女で一つないし二つの輪を作るか、中には渦巻き状態になり、内側に男性が、外側に女性がくるというところがある。全体的に多いのは前者、輪を作る形のものだが、このとき男のグループと、女のグループとははっきり分かれるというのが基本である。

 この踊りでは、踊る人は全て歌う人である。また踊りにつきものの楽器は、チジンといわれる直径四、五〇センチほどの太鼓であるが、これも踊り手の何人かが分担する。つまり八月踊りは「踊り」「歌」「楽器」とが完全に三位一体となっているという点で、古代的要素を持った芸能であることは確かである。

 歌は男性対女性の掛け合いである。大体、男女それぞれにウタジャシベ(歌を出す人)といった歌の文句をよく知っている人がいて、その人が歌い出すと後の人がそれに和して歌う。本来はその場その時に応じて、即興的に歌詞が出されるのだが、近年はほとんど歌詞がテキスト化され、あらかじめ決められた通りに歌う形が多くなった。

 八月踊りの歌の数や種類も集落によってかなりの異動がある。多いところでは三〇曲を超すところも稀ではないし、二、三曲を繰り返し踊るところもある。ただ「祝おえ」「祝い付け」「この家の庭」「しまぬいび加那志」といった儀礼的な歌は何処にもあるといってよいだろう。ちなみに今挙げた歌は、曲名は異なるもの系統的には同じ歌だといってよい。

 これらの歌も、だんだん早くなっていくところと、テンポが終始変わらないところとがある。奄美大島の北部と徳之島が前者の地域であり、熱狂的な雰囲気をかもしだす。

 また、太鼓の持ち手も、女性に限定している地域がある。節田を含む奄美大島北部がそうである。その理由は明らかではないが、かつて太鼓の打ち手の主体が、集落ごとにいたノロといわれた女性司祭者であった、その名残を留めていることは確かであろう。

 ここで、節田の八月踊りに焦点を合わせてみてみる。節田では今もアラセツとシバサシ、ドンガに踊られている。集落中の家を踊りまわる風も続く。

 踊りの曲数は二〇曲ほどであるが、今日実際に踊られるのは一〇曲くらいという。
 もっとも儀礼的な歌が「祝付け」といい、

 ○(よー)付けておろし 今年世(くとうし)一倉(いちくら)
  来年(やね)()二倉(ふたくら) 再来年(いしゅ)()三倉(みくら) 御祝(うゆえ)ばかり

  (お祝いを付けておろし 今年の世は豊作で一倉米でいっぱいになった。
   来年は二倉 再来年は三倉になるだろう。お祝いばかりが続く。
   *「おろし」が意味不詳)

 が打ち出しの歌詞である。以下、掛け合いで歌われていく。節田では、どの歌も打ち出しは、男側からである。太鼓は女性側、三、四人が持って打つ。歌の速さは、どの曲もだんだん速くなっていく。

 ほかによく踊られるのは「さんだまけまけ」と「あらすくゎ」などである。打ち出しの歌詞とハヤシコトバだけあげておこう。

 ○さんだ蒔け蒔け 大根(でこね)下せ
  下し育てて やせ(さかな)
  ヨイコラショノアリャコリャ アソディ ヨイコラショ

 「さんだまけまけ」は七七七五調の近世小唄調に近い詩形で、この曲自体も近世の移入歌と思われる。
 「あらすくわ」は、「新節」の意味とされるが、次のような歌詞である。

 ○新節(あさせ)っくゎぬ(くと)や 白い玉黄金(たまくがね)   三味線持(さむしんむ)ちいもれ 付けてうぇせろ

 (八月の新節のことは正に純白の玉黄金のようなもの。三味線を持っておいで
  それに歌を付けて差し上げましょう。
  *「くゎ」は接尾語。「玉黄金」は尊いもの、愛しいものを比瞼的にいったもの。
   この歌詞の二句目以降は、同地のしまうた「しゅんかね節」と同じ)

三 しまうた

 「はじめに」のところでも述べた通り、「しまうた」という言葉は、今日奄美、沖縄全域で聞かれる。しかし、この言葉の持つニュアンスは何処も同じだとはいえないようである。そこで本稿では、奄美大島のしまうたを中心に述べることとする。

 最初に、「しまうた」は「島歌」とか「島唄」と表記されることが多いが、この「しま」とは必ずしも島喚を指すものではないということである。今でも、島の人たちは、自分の生まれた村落を「吾きゃ(私ら)が生まれジマ」というように「村落」や「集落」の意味も持っている。「しまうた」も奄美大島の歌というより、自分たちの住む集落の歌というニュアンスが強いといっていいだろう。

 なお、歌の種類の上からも、シマに伝わる民謡の全てを「しまうた」といっているわけではない。シマの民謡として、大きく先述の八月踊りの歌を含む行事に伴う歌、各種仕事歌、そして家の座敷で主に楽しみのために歌われる座興歌に分けられるが、しまうたは明らかに最後の座興歌に分類されるものである。ただ、奄美では家に人が寄り合い、主にサンシン(三味線)を伴奏として歌を歌って楽しむことを「ウタアスビ(歌遊びこといっているが、そのことからも「座興歌」というよりは「遊び歌」というほうが相応しく思う。

 しまうたの歌われ方も、男女の掛け合いが基本である。しかし、歌遊びに参加するのは、八月踊りのように男女とは限らないから、男ないし女同士の掛け合いもありうる。それは一対一の場合もあるし、三人以上の人たちが交互に歌詞を出しあっていく場合もある。かつ、八月踊りのように男性グループと女性グループの掛け合いも行うところがある。先にも述べたポレウタ(群歌)である。

 しまうたの曲数は、数え方にもよるが(異名同曲など同数えるか問題)、一人で三、四〇曲歌う人も稀ではない。奄美のしまうたの場合、曲と歌詞とが固定的でないということは八月踊りと同様である。何百という歌詞が歌う人(島ではウタシャ〈歌者〉という)の頭の中にはいっていて、それでもって時々の思いや感想をやりとりするのである。ただし、それぞれの曲には、歌われるべき詩形が決まっていて、それと合致しなければ歌うことはできない。ちなみに、現在残されたしまうたの歌詞をみてみると、八八八六調のいわゆる琉歌調が主流をしめ、ほかに五八五調を基本とするものや不定形がある。わずかだが、七七七五調歌詞もあり、これらは本土か移入されたものであることが分かる。

 昔はその場で文句を考えて歌う即興の名人も多かったといわれる。そこでは、噂話も出てくるから、若い娘さんなどは歌で歌われることを非常に恐れたという。しかし今は、時と場に応じて選択した歌詞に、自分の思いを込めて歌うのが主流とになり、かつてのような即興の力はなくなったというのが真実である。

 残された歌詞を内容的みてみると、挨拶歌、恋歌、教訓歌、祝歌、哀悼歌、うわさ歌、物語歌等々と多彩である。なかでも、恋歌が圧倒的に多い。それは、かって奄美の歌遊びが若い男女の交際の場であり、ときに配偶者を選ぶ機会となったことと無関係ではないだろう。実際、歌遊びを通して夫婦になったという人は今もなお生存している。

 曲と歌詞とは固定的でないとはいったが、曲によって、挨拶や祝いに相応しい歌とか、送別に相応しいとか、物語やうわさを歌う歌というのが、おおよそは決まってる。

 奄美大島の歌遊びでは、必ずといっていいほど最初に歌われるのが「あさぱな節」である。これは挨拶の歌とも、座を清める歌とも、声馴らしの歌ともいわれているが、むろん恋歌も歌われる。このあと、声が出しやすい歌から始まって、おしまいころは声をつかう歌が出てくる。例えば「嘉徳なべ加那節」などである。しみじみした歌が続いて最後は、節田まんかいにも出てきた手踊り歌「六調」である。「鹿児島おはら節」とメロディーがほとんど一緒の「天草」が踊られることもある。

 しまうたについて最後にいっておきたいのは、もちろん奄美で作られた歌も多いが、外来の歌も少なくはないということである。なお、ルーツをたどると、仕事歌に行き着く曲がかなりを占めるということである。

 以上の事情は、節田集落の場合もそれほど変わらないと思う。やはり「あさばな節」から始まり「六調」で締められるようである。

 以下、このたびの公演に歌われる曲名と歌詞を一首ずつあげて本稿を終えたい。

「あさばな節」

 ○あさぱな流行(はや)(ぶし) 歌ぬはじまりや あさぱな流行り節

 (あさぱな流行り節 歌遊びの始まりは あさぱな流行り節だ。
  *「あさぱな節」を「あさぱな流行り節」というところも多い)

 ○(うが)まん(ちゅ)む 拝で知りゅり 今日ぬ良かろ日に
  拝まん人む 拝で知りょり

 (逢ったことのない人も逢ってこそ知り合える。今日の
  良き日にこうしたお逢いして)

俊良主節

 ○世間(すぃけん)なんて()らめかな(むん)
  七倉建てとぅてみしょらしゅん(ちゅ)どぅ 羨れかむん
  うれゆんま羨らめか者な
  (あんま)とぅ(じゅう)がいもりゅん人どぅ 羨らめかむん

  (世間で羨ましい人は 七倉も建てなさった人 それが羨ましい。
   それよりも羨ましい人は 母と父がいきてらっしゃる人
   それが羨ましい)

 *曲名となっている「俊良主節」(「主』は尊称)は幕末から明治に掛けて実在し、奄美に功績のあった人。此の人物を歌った歌詞ももちろんあるが、このように一般的な歌詞が多く歌われる。

「六調」

 ○此処(ここ)ぬ屋敷は (ゆわ)いぬ屋敷
  黄金(くがね)花咲く 金がなる

[お断り]本稿執筆に当たり、林義則、泉貞美智、奥琿人、中山清美各氏のご協力を頂きました。感謝申しあげます。なお、八月踊り、しまうたの歌詞は「南島歌謡大成V奄美篤」(昭和五四年角川書店発行)に、節田まんかい、八月踊り、しまうたの解説、詞章、採譜資料等は「日本民謡大観(沖繩 奄美)奄美諸島篇」(平成五年日本放送出版協会発行)に多く収戦されています。

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Last-modified: 2013-04-11 (木) 14:21:05 (2070d)