想 林
創刊号
地域人間科学研究所編
2010
Essays
エッセイ・評論・研究ノート
私の奄美民謡研究
小川学夫

はじめに

 東京で、はじめて奄美民謡を聞いたのが1961年のことである。日本 青年館で行われた。文部省芸術祭執行委員会等主催の「第6回全国芸能大会」に出たシマウタ*1と、集団歌舞、八月踊りとその唄*2であった。 それを、私の奄美民謡研究の出発とすれば、やがて50年になる。年齢か らいって、そろそろライフワークのまとめに入らなければいけない時期 で、自分がこれまで、試行錯誤しながらやってきた研究の歩みを振り返 って、まとめておくのも必要かと考えた。従って、本稿は研究論文とエ ッセイの中間のようなものになる。研究者にとって、エッセイといえば、 −段ランクが低いもののようにみられるが、論証を一義とする研究論文 では、あまり書けないようなことも書くことができる。
 その自由さに甘え、以下、研究のテーマに沿って記していきたい。

1.唄の系譜調べ

 私は、奄美の民謡研究を、大げさでもなんでもなく徒手空拳から始め た。音楽的素養があったわけではなく、といって奄美の言葉を知ってい たわけでなく、口承文芸や民俗音楽の研究方法を身につけていたわけで はない。それに、研究者には必須条件であろう記憶力にすこぶる弱いという自覚もあって、たくさんある曲名や歌詞、語彙などを頭に入れられ るだろうかという心配もないではなかった。

 はじめて奄美民謡を聞いたのは、大学のときだが、奄美に住んで直接、 奄美民謡と接し研究を始めたのは、’63年、大学院修士課程のときであ る。奄美のシマウタをテーマに修士論文を書くという目的で、私は1年 間休学をして奄美に渡り、現奄美市名瀬で民謡レコードの録音、制作を 手がけていたレコード・楽器店でアルバイトをすることになった。

 私の主な仕事は、録音の助手と、レコードにして販売するときに添付 する歌詞カードを作ることであった。この仕事が、どれだけ私の研究に 役立ったか、今はいくら感謝してもしきれるものではない。何よりも、 レコードに添付する歌詞カードを作るために、録音した唄を何度も聞か ざるを得なかった。そのため、代表的な唄のメロディーをいつのまにか 口ずさめるようになった。そして、私の研究に後々まで影響を与えたの は、オーナーからの要望で、歌詞だけでなく、ハヤシコトバや歌詞反復 まで実際に歌うがままに記述しなければならなかったことであった。

 実は奄美に来るまで、大学の図書館で、文英吉著「奄美民謡大観」(南 島文化研究社‘33年刊)を探し出して、ときどきそれを拾い読みしてい た。この本は、確かにこの唄にまつわる曲の由来や伝説を詳しく教えて くれたが、歌詞だけの記載で、ハヤシコトバや歌唱反復は全くといって よいほど省略されていたのである。しかし、実際、現地の歌い手(島で はウタシヤという)によって歌われた録音テープをもとに、多くの人に 教えられながら文字化してみると、実にさまざまなハヤシコトバや、歌 詞反復の形があることに気付かされた。

 もしこの時、歌詞だけの記栽ですんだのであれば、その後の、曲目の 系譜調べという作業は、曲調の印象でやるしかなかったと思う。つまり、 ハヤシコトバや歌詞反復を分析、観察するうちに、歌詞や唄の旋律以上 に、唄の伝承や伝播過程において、ハヤシコトバや反復形式こそ、歌詞 や唄の旋律以上に変化の度合いが少ない要素であることが分かってきた のである。したがって、この2要素を比較していけば、面白いように、 奄美各地に伝わる唄の系譜調べができたともいえる。文字化した歌唱形 をもとに、それに、唄の聞き取りをしながら覚えた旋律の印象を加えて、 私なりの系譜調べはしばらく続いた。

 ここに、この方法で確認できた典型的な1例をあげる。
 奄美大島の「ヨイスラ節」(一名「舟ぬ高ども節」)はつぎのように歌 われる。[左のひらがなは、歌詞。カタカナはハヤシコトバ。つぎのA、 B、C、Dは,歌詞の1、2、3、4句目を示し、a、b、cはハヤシコト バを示す。相方ハヤシは省略。右の漢字交じりひらがなは、歌詞の共 通語訳である。なお、詞章は、拙著「奄美の島唄」(根元書房’81年刊) より引用。これ以外の引用詞章.歌詞についても同じ]

ふねぬたかどもに ヨイスラ
ふれいたかどもに ヨイスラ
いちゅるしりゅどりぐゎ
スラヨイスラヨイ
しりゅどりやあらぬ ヨイスラ
しりゆどうりやあらぬ ヨイスラ
うなりかみがなし
スラヨイスラヨイ

Aa 船の高い鑓に
Aa
B  止まっている白い鳥
b
Ca あれは白い鳥ではない
Ca
D  姉妹神の化身だ
b

つぎは,沖永良部島の「いしん頂」(一名「ヨイシュリ節」)の歌われ方 である。奄美大島の「ヨイスラ節」とは,歌詞も,曲調も全く違ってい る。

いしんちぢにぶて ヨイシュラ
いしんちぢにぶて ヨイシュラ
まヘーむこてみりぱ
シュラヨイシュラヨイ
アラランクララン
なふぁぬあみうちゃが ヨイシュラ
なふぁぬあみうちゃが ヨイシュラ
あしぢけぬちゅらさ
シュラヨイシュラヨイ
アラランクララン

Aa いしん頂に登って
Aa
B  真南に向かって見れば
b
c
Ca  沖縄那覇の漁師の網の仕掛けは
Ca
D   足使いがきれいだ
b
c

 歌詞の反復は、ともに1句目と4句目を繰り返すAABCCD型であ り、ハヤシコトバも、「いしん頂節」のc部分を除けば、「ヨイスラ」と 「イシュラ」、「スラヨイ」と「シュラヨイ」は明らかに対応するもので あり、両者は見事に一致する。かつて、はらからの唄であることを認め ざるを得ないであろう。

 私は、この一致に気付いたときには、正直いささか、興奮したもので ある。

 後日、私はこの方法が本土民謡の系譜調べにも応用できることを確認 した。実は、本土民謡についてどう系譜調べをするのかの方法論は今だ 確立しているとはいえない。民謡研究の先駆的研究家に、町田嘉章,浅 野建治の両先生をあげることには誰も否定できないと思うが、この先生 方の系譜調べは耳に頼るところが多かったのではないか。もちろん、そ の結果が間違いだった、というつもりはないが、これだけでは多くの曲 が見落とされた可能性はある。私の方法が、本土民謡の何処まで通じる かはこれからの問題だと思っている。

 ただ、私の方法論には大きな問題があった。唄の伝承過程において、 大切な要素である歌詞や音楽が大きな変わり方をしながら、極端にいえ ば、なくてもよい形式的なハヤシコトバや、歌詞反復がなぜ残ったのか、 ということである。

 私は、歌い手の心情が影響する歌詞や曲調よりも、形式化した意味の 希薄なものの方が、変化しにくい、という結論に到った。

 さらに、奄美民謡の基本的な歌われ形は、後述するように、主に複数 の男女が、唄を掛け合うということである。唄掛けは、その場その時の 思いを、相手に向けて歌い、それにまた返事をするという形で続いてい くのが普通であるから、即興が尊ばれる。私の研究に入った時期は、即 興で唄を出す人はほとんどいなくなっていた。しかし、たくさんの既製 の歌詞を覚えていて、時と場、相手の歌った文句に応じた歌詞を歌って いくというのが、一般的であった。いずれにせよ、1つの歌詞が、Aと いう曲にも、Bという曲にも歌われる可能性があって、曲と歌詞のつな がりは強いものではなかったのである。それに、奄美には、沖縄の工工 四(クンクンシー)のような楽譜はなかったから、唄は聴き覚えで伝承さ れるしかなかった。変化するほうが自然だったと考えられるのである。

2.唄掛けの構造的研究

 このような唄の系譜調べをやる一方、私はつぎの研究テーマを模索し ていたが、1970年頃、私は古代歌謡の泰斗、土橋寛先生(当時、同志社 大学教授)の古代歌謡に関する何冊かの著書*3と出会うことになる。

 そこで驚いたのが、日本の古代歌謡も奄美の民謡も、掛け合い(主に 男女が交互唱すること)を基本的な歌い方としており、それが歌唱形式 の上で、きわめて類似している点が多いということであった。

 その後、土橋先生を直接存じ上げることとなり、先生から学んだこと は数え切れないほどあるが、私にとって、最も関心深かったのは、日本 の歌謡のほとんどが上の句と下の句からなっているが、それは甲が上を 歌えば、乙が下を歌った、いわゆる掛け唄の形を残しているという指摘 であった。かつ、日本民謡のなかで、今は1人ないし1グループで歌 う唄も、その旋律を観察すれば、上と下とが全く同じものがかなりある、 というのも驚きであった。何をいおう、奄美民謡の場合、かなりの割合 でそのことが当てはまったからである。

 これも例をあげる。徳之島でもっともポピュラーなシマウタ「ちゅっ きやり節」である。

はやたるちゅっきゃいぶし
たっきゃりなさるとや
アネ たっきゃいなさるとや
ちゅっきゃいやかながため
ちゅっきゃいやわがためだ
アネ ちゅきゃっいやわがためだ

A 流行りの「一切節」を
B 二切れになさるとか
B
C 一切れは恋人のため
D もう一切れは私のためだ
D

 この詞章のABBが上の句で、CDDが下の句である。日本放送協 会編の「日本民謡大観沖縄・奄美奄美諸島篇」(日本放送出版協会 1993年)の「一切節」の採譜(623頁)からも分かるように、ABBと CDDとは明らかに同一旋律で歌われている。反復形ももちろん上下対 称である。このことは、かつて「ちゅっきゃり節」が、上の句、下の句 が別の人によって歌われていたという結論に導かれであろう。そのほか の曲についても、こうした分析をやっていくうちに、たどり着いたのが、 奄美、沖縄の基本的な詞形ともいうべき8886調4句体詞形がどうや って成立したか、ということであった。

 琉歌調といわれるこの詞形の成り立ちに付いては、それまでもいく人 かの研究家が言及していて、大きく2つの説が知られていた。

 1つは、この4句体歌詞のルーツを、沖縄の神唄とも言うべき「おも るそうし」*4の「おもろ」に求めたものである。確かに、これに似た詞形のおもるが何首かあるが、それらはたまたま似ていた可能性もあっ た。

 もう1つの説は、本土歌謡の7775調歌詞に求めるものである。 8886は、本土の近世小唄調と称される7775に1音ずつ加えて出 来上がったのだという説まであったが、これも確証されたものではなか った。

 ここで私は、8886調4句体歌詞を生むのに、唄掛けの影響が強く 働いていることを思わずにはいられなかった。そこで、次のような変遷 過程を提示した。

(1)始めは88調2句体歌詞で掛け合いが行われていた。実際、徳之島の 集団歌舞、夏目踊りは、全ての曲ではないがそう歌われる傾向がある。 それに、88調2句体の長さであると、即興的につぎつぎ歌詞を出し ていくことも容易にできた。

(2)やがて、2句体では、自分たちの思いを叙情的に表現するには物足 りなさを感じるようになる。そこで、上の句、下の句を合体させて 8888調歌詞を歌うようになる。この詞形の歌詞も多くはないが存 在する。先に例示した「ヨイスラ節」の「ふねぬたかどもに〜」「い しんちぢ節」の「いしんちぢにぶて〜」の歌詞もそうである。

(3)だが、8888調では、機械的に上下を合わせた、という気持ちが残 る。あくまで、4句体で1首だという意識を持つのには、どちらかに アクセントをおく、いわゆる上下不均衡である必要があったのではな いか。そこで、最終句8音を6音にした。かくて琉歌調といわれる歌詞が成立した。

と、以上のように想定したのである。

 これを発表してから、30年近くたつが、第3者による厳密な検証 は行われていない。否定もされていないが、積極的な賛同もない。いず れにしても、今なお奄美には、この3つのどれもが残されている形であ り、私にとっては、唄掛けの実態を考えれば考えるほどに、捨てがたい 説なのである。

 このこと以外に、唄掛けが奄美民謡の形式や構造などに与えた影響は いくつもある。そのいくつかを挙げておきたい。

1. 奄美民謡の曲目ごとの歌詞は、固定的でない。(前章でも触れた)
 唄掛けは、そのとき、その場の会話のようなものであるから、変わら ざるを得ないのである。古くは、即興で歌われることが多かったが、 今は、歌い手たちがたくさんの歌詞を頭にストックしておいて、時と 場に応じてそれを打ち出す、という形をとる。ただ、打ち出しの歌詞 だけは決まったものがほとんどである。これは曲名のようなもので、 実際、奄美民謡の曲名は、打ち出しの歌詞の頭をとったものが多い。
例えば,「ながくも節」は

ながくもぬながさ
しのぎさゆじびりゃや
かなにおめなせば
くるまとおばる

長雲の長さ
しんどいきゆじ坂
しかし恋人のことを思えば
まるで車の通る平坦地だ,

という打ち出しの文句からきている、という具合にである。

2. 実際の歌唱において歌詞を反復して歌うのも、唄掛けの影響がある。  つまり、相手に念を押す働きと、繰返しを歌っている間に、相手につ ぎの歌詞を考えさせる余裕を与える働きがあるということである。 なかには、徳之島の夏目踊りのように、相手方に初句を与えるところ もある。

3. 唄掛けは,歌詞における踏韻、問答法、対句、尻取り法等のレトリッ クを豊かなものにした。
 掛け合いにあってもっとも重要なことは、歌詞をとぎらせることことなく、長く歌い続けていくことである。そのとき、レトリックは強い武器となる。普通は、前の人の文句に対し、内容的に相応しい返事をしたり、話題を引き継ぐ形をとるが、時には、意味、内容を超えて、同じレトリックを用いることで、繋げることができるからである。
 頻繁に行われるのが、つぎのような、前の歌詞の文句の一部をとるような、いわゆる前句引用法ともいうべきものである。

 ○ うぐみずぬいじて
  らんかんぱしあれながらち
  しにょできゅるかなや
  なちどマタもどりゅる

大水が出て
らんかん橋が洗い流された
偲んできた恋人も
(愛する人に会えず)泣く泣く戻って行く

 ○ うぐみずぬいじて
  さいたながあれながらち
  いしょしゃいとじや
  なちどもどりゅる

大水が出て
さいや手長(川の海老類)が洗い流された
磯者(漁師)の妻は
泣いて戻る

 前の言葉2句を引いただけで、ロマンチックな恋歌とは、全く別世界を歌った
 例である。

4. 民謡の音楽的な面にも、唄掛けの影響は大きい。
 1つの節回しを用いて、複数の人が歌うのであるから、大切にされるのはリズムとテンポである。これが、歌い手ごとに変わってしまってはまるで統一性がなくなる。したがって、奄美民謡の伴奏楽器の中に三味線があるが、これは旋律楽器というより、リズム楽器に位置づける方が正しいと思われる。実際、三味線を、唄の旋律通りには弾かずに、リズムを奏でているような弾き方をする人が少なくないのである。

5. 歌詞音楽の叙情化への影響
 また、奄美の唄掛けでは、1つの節回しでもって、複数人たちが歌うわけであるから、本来「個の唄」ではありえず、「集団の唄」という古い形をとらざるを得ない。従って、特に音楽的には、日常的な会話に節がついた程度で、叙情的に深化しにくい状況にある。近年、とりわけ若い人の唄が叙情的、かつ個性的になっているのは唄掛けの習慣が急速に薄れた、その結果だといえる。

このほかにも、唄掛けは、唄とはいったい何なのか、という根本的な 問題をも考えさせてくれた。これは、つぎの南島歌謡史のなかに民謡を どう位置づけるかという問題に関わってくる。

3.南島歌謡史への民謡の位置づけ

 私が、唄掛けが奄美民謡を考えるときの基本的な問題だと考え始めた ころ、主に沖縄の研究者との交流が頻繁に行われるようになった。

 周知のように、奄美は1609年、薩摩藩の直接支配を受けるまでは、琉 球王国の1地域であって、沖縄とは深い関係にあった。今日でも、奄美 方言が、沖縄方言の1つと分類されていることからも明らかである。私 もそれを知って、曲目の系譜調べでは、沖縄民謡や沖縄古典音楽のなか の曲目にも目を向けていた。それで、例えば奄美大島の「長雲節」と、 徳之島の「舟こぎ唄(一名、ながくも節)と沖永良部島の「ながくま節」 と、沖縄の有名な雑踊りの唄「浜千鳥」とが姉妹歌であることをつきと めたりした。

 しかし、沖縄の多くの歌謡研究者の関心事は、そんなことよりも南島 歌謡史の構築に向けて、懸命の様子だった。当然、私もその論議に参加 することになった。

 奄美、沖縄の伝承歌謡は、大きく、主に神事を行うノロ*5やユタ*6 が儀礼の場で歌う神唄と、一般庶民が仕事や、祭りや、娯楽といったい ろいろな場で口づきむ民謡とに分類される。前者、神唄の多くは、神の 来歴を歌ったり、米や芭蕉布が出来るまでを歌ったり、といったいわゆ る長詞形の叙事的歌謡である。対して、後者は、短い詞で自分たちの思 いや、感想を歌う短詞形叙情歌だといえる。問題となったのは、この両 者をどう位置づけるかということである。

 私の前には、長詞形叙事歌(神唄)から、短詞形叙情歌(民謡)が生まれたと強く主張する外間守善(当時、法政大学教授)*7と小野重朗(鹿児島在住の民俗学者)*8という2人の権威がいらして、他の多くの研究 者もこの説に賛同しているかに見受けられた。

 しかし、唄掛けを奄美民謡の原点と実感している私には、どうしても この流れが納得できなかった。事柄を叙する唄と、人の思いを発する唄 は、原始時代ならばいざ知らず、歴史時代になってからは、お互いの影 響関係にはあっても水と油のごとき別個のものだという気がしてならな かったのである。

 そう思う根拠には、もう1つあって、唄の発生と進展をどう捉えるか という問題と関わってくる。少なくとも、私が考えていたパターンは日 常的な言葉から、非日常的な唄への進展ということであった。具体的に いえば、ほとんど日常会話に近い言葉がだんだん歌いこまれるうち に、韻律にメリハリの付いた唄に成長していくということである。とこ ろが、神唄を歌謡研究の出発とした人は、非日常の唄が、だんだん日常 的な唄になったという考えをする傾向があった。確かに、神唄は神の資 格で歌うものが多いから、元来、非日常的なものである。しかし、私に は、その神唄が、より日常的な庶民の民謡に変化していく、という道筋 は、とうてい納得できるものではなかった。

 それに、人の心性において、沖縄の祭政一致時代にあっては、個人の 思いを歌うには至らず、15、6世紀を待って始めてそれが出来るように なったという見解も、理解できるものではなかった。もし、この理論を 推し進めていくなら、沖縄,奄美で心の内を歌い合う唄掛けが生まれた のは、15、6世紀以降ということになってしまう。わが国では、記紀万 葉の時代から、「歌垣」という名で頻繁に出てくる唄掛けがあった。掛 け合いの習慣は、世界的にも古くから多くの民族の間で行われていたも のである*9。なぜ、奄美、沖縄だけ、そんな新しい時代に唄掛けが始まったというのか、それは大きな疑問であった。この問題は、まだ決着はしていない。

 余談になるが、私が1988年、奄美から鹿児島に居を移してから、叙事 歌謡から叙情歌謡への移行説を強く唱える小野重朗先生*10と同じ市内に住む巡り合わせになった。お会いするたびに、あいさつもそこそこに 論争になった。先生は、真剣に私の考えを聞いてはくださったが、自説 は絶対曲げることはなかった。私は、悔しくて夜、眠られないこともあ ったほどだ。しかし、反対されればされるほど、わが論は強くなってい ったことも事実である。先生が亡くなったとき、私は得がたい論敵を失 って気落ちしてしまった。その後、私の考えが変わったわけではないが、 今も小野先生が素晴らしい指導者であった、という尊敬の思いは少しも かわるものではない。

4.生きものとしての民謡観察

 私は奄美に生活しながら、民謡研究ばかりをしていたのではなかっ た。生活のために、研究とは全く関係のない仕事もずいぶんしたし、ま た、奄美民謡を島内外の人に楽しんで貰ったり、民謡をもっと盛んにさ せるために、多くの島の人たちと一緒に民謡大会やコンクールなどを 企画して実行した。このことは、研究者としてよかったのか、悪かった のか、まだ結論は出ていない。ただ、いつも心の隅では、研究者といえ ども民謡の伝承と発展に側面から応援しなければならないという気持ち と、研究者は純粋に、あるがままの唄を観察し分析し、理論構築する のが正しいという気持ちが相克していた。結局、いろいろな経緯から 前者の道を選んだわけだが、その過程で、民謡が生きものとして時とと もに刻々と変化していく様に敏感にならざるを得なかったともいえる。

 私が、奄美で暮らすようになった1960年代は、正に奄美民謡が歌い手 と聞き手の区別のない唄掛け全盛の時代からから、歌い手と聞き手がは っきりと分離して、プロ的なウタシャの素晴らしい唄を聞くという時代 への過渡期でなかったかと思う。その要因には、唄を歌ったり聞いたりする機会が、それまでの唄遊びといわれるものから、民謡大会やレコー ドに移行しつつあったということである。

 この傾向をさらに加速させたのは、全国大会につながるコンクールで あったことは間違いない。当初は、奄美には隠れた歌い手がもっといる に違いない、という単純な意図で始められたものだがこれが定着する につれ、唄が技巧的に磨かれていく傾向が出てきた。さらに全国大会に おいて、ぞくぞくと日本一のウタシャが現れ、かつシマウタを基にした 発声法でポップスを歌い、全国的にブレークする元ちとせのようなスタ ーが現れると、シマウタの伝承のありかたにも、意識面でも大変化が起 こった。

 私は、奄美民謡のこの50年ほどの流れは、奄美のみならず、日本の民 謡の変遷を、いやもっと大げさにいえば、世界の音楽や歌謡の流れを 考えるにも、重要なヒントを与えてくれるのではないかと考えている。 個々の事象については、折々に書いてきたことだが、私の気付きのいく つかをここにまとめておきたい。

1. 唄掛けの衰退によって、歌の文句への関心が、音楽的な面に移った。
 つまり、唄掛けの時代は、唄はあくまで,会話の手段としてあった が、だんだん,音楽的に楽しむ傾向に変わっていった。これは、奄美 方言を理解し使える人々がだんだん少なくなったことと呼応する。

2. 音楽的に高音を志向するようになった。
 高音で歌うことは.唄に迫力を持たせるためには効果的な技法であ る。なお、特にシマウタの場合は、三味線を伴奏楽器とするが、三味 線のピッチと唄の高さとは連動する。かつては、絹糸に卵の黄身を塗 りつけて弦にしたといわれているが、いずれにせよ今のような高音を 出すと切れてしまう。戦後、化繊の弦が出回るようになり、高音志向 はますます、エスカレートすることになった。

3. 唄掛けの衰退が加速した。
 唄掛けは、主に男女で行われるが、特に三味線を伴奏楽器といて用 いられるシマウタでは、男女同一のピッチ(音高)で歌うこととなる。 このとき、生理的に、男性より女性の歌い手が高音であるからどちら かが無理しなければならない。奄美では、女性の声に合わせ、男性は 裏声でカバーした.というのが私のみかたである。高音志向は、特に女性の歌い手に顕著にみられ、男性の中には掛け合いを断念しなければならない人も出てきた。ますます、唄掛けの習慣は衰退したともいえる。
 ついでながら,奄美の三味線は,伝統的に男性のものであったが、今はほとんどの女性ウタシャも弾くようになった。いうまでもなく、声の高さや旋律面で主導権が得られるからである。

4. 唄の速度が,時代とともに遅くなった。
   かつて.シマウタでは,リズムをシャクフン(尺寸)といって、最も大切にされた。1つの三味線で複数の人たちがつぎつぎ歌っていくわけであるから、リズムだけは一定していなければならなかったわけである。しかし、唄掛けから、個人の唄に変化する過程で、歌い手は、唄での会話を超えて、そこに叙情を込めようとする。唄が遅くなっていったのは自然の流れであった。今、50年ほど前の録音と最近の録音を聞き比べてみると、倍以上、遅い唄を歌う人もいる。人の耳とは恐ろしいもので、ゆっくりした唄に慣れてしまうと、アップテンポの唄 が、なにか味わいに欠けるように感じられてならないのである。実は、この遅速度化現象は、奄美だけのことではないことが分かっている。日本の能や歌舞伎などの古典も、昔はもっと速く演じられたといい、バロック音楽なども、今よりはずっと速く演奏されていたという研究があるようである。

5. 歌詞のテキスト化がすすみつつある。
  先述したように唄掛けの歌詞は、即興的、かつ即境(時と場に応じた)的に歌われたものであるから、テキストなどはあり得ないわけである。従って、歌い手も、当座即妙に文句を出せたり、たくさんの歌詞を知っていることに高い評価が与えられた。しかしながら、舞台で聞かせたり、レコードに吹き込むには、もっとも歌いやすい歌詞を選び、それを叙情たつぶりに歌うことが大切になってくる。  また、近年の特にシマウタ継承の機会は、かつての唄遊びの場から、民謡教室とか、録音テープ、CDなどに変わっている。そこで、歌詞がテキスト化されることは必然でもあった。ついでながら、今、多くの民謡教室が、唄の伴奏楽器、三味線の曲を、それぞれの教師が工夫して楽譜を作り、それをもとに教えていることも付記しておきたい。

6. 地域性が失われつつある。
  シマウタの「シマ」は、島嶼をさす「島」ではなく、集落のことではないかと思われるほどに、どの民謡も生活共同体の、家族のつぎの単位である「集落」に密接するものだった。従って、集落から都市部に出てきて、ウタシャとして有名になっても、常に出身地が問われることが多かったことは確かである。ところが、民謡教室や録音などによる伝承が頻繁になった昨今、特に若いウタシャたちの出身地を問うことはあまりなくなったといってよい。さすが、集団歌舞「八月踊り」だけは、集落なしに、ほとんど成り立たない踊りと唄であるから、その限りではない。とはいえ、地域の力が、日々衰えつつある昨今、この八月踊りの変容だけは、一研究者として目を離せない状況にある。

以上、6項に分けて述べた。細かい点をあげると際限はないが,私が 着眼したことの大概は述べたつもりである。

まとめ

 この50年近く、奄美と民謡というフィールドを与えられて、遅々とし ながらも何とか研究を続けてこられたが*11、今は心底、自分は何と果 報者だったかという思いをしている。
 ともかく、1地域の唄の変遷を、じっくりと観察させていただいた。 考えてみたら、どれもささやかな気付きや発見ではあったがこれが、 方法論がしっかり確立した研究分野であったら、研究の喜びはこれほど はなかったと思うのである。
 なお、調査、研究の途次、伝承者をはじめとする数限りない人々にお 会いし、唄について教えてくれたり、刺激を与えてくれたことも本当に 有難いことであった。この機会に感謝の意を表しておきたいと,心から 思う。

(鹿児島純心女子短期大学名誉教授)

*1 奄美民謡のなかでも、王に家の座敷で男女が寄り染まって歌いあう唄・遊び唄.三味線唄ともいう。この「シマ」は、島嶼の意味と、集落の意味を持つ。本土民謡の座興唄に該当する。近年は、島の唄全体をいう場合もある。本稿では、本来の意味で使う。
*2 旧暦八月の節目に集団で踊られる踊り。男女で輪を作り、掛け合いをしながら歌う。楽器は、チジンといわれる太鼓が用いられる。
*3 「古代歌謡論」(三一轡房’60年刊).「古代歌謡の世界」(概選轡’68年刊)等
*4 沖縄の古い神詩集。22巻1554首よりなる。16〜17世紀成立。
*5 かつて琉球王府が任命した神女。奄美にもその末爾がいる。
*6 民間巫者。神がかりになって降遜などの巫術を行う。
*7 「南島文学蓋」(角川書店1985年刊)、「沖縄学への道」(岩波轡店2002年刊)等の著書がある。
*8 「南島の古歌謡」(ジャパン・パブリツシヤーズ゛77年刊)、「南島歌謡」(日本放送出版協会77年刊)等の著替がある。
*9 「ホモ・ルーデンス」(J・ホイジンガ高橋英夫訳中公文願92年刊)
*10  研究成果は.拙著「奄美民謡誌」(法政大学出版局79年刊)、「奄美の島唄〜その世界と系謂〜」(本文に既出)、「民謡の島の生活誌」(PHP研究所’84年刊)、「歌謡(うた)の民俗〜奄美の歌掛け〜」(雄山出版’88年刊)、「奄美シマウタヘの招待」(春苑堂出版’99年刊)等にまとめ発表した。
*11 註10と同じ
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Last-modified: 2013-03-06 (水) 11:03:13 (2717d)