奄美における民謡と伝承説話の交渉

小川学夫
地域・人間・科学
1999年3月第3号抜刷
鹿児島純心女子短期大学
地域人間科学研究所
奄美における民謡と伝承説話の交渉
Connections between Folk Songs and Folk Tales in the Amami Islands
キーワード
奄美民謡 奄美の神話 奄美の伝説 奄美のうわさ話 奄美の昔話
小川学夫

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[要約]
 奄美民謡を,一般島民が集団で掛け合いながら歌う歌と規定して,それらと民間に流布する神話,伝説,うわさ話,昔話とどう関わっているかを事例をあげて考察した。
 神話との関わりではシマウタ「上がれ世ぬはる加那節」を例に,この歌の原形として神人(職能的宗教者)の長詞形の神歌があったのではないかと推論した。なお伝説,うわさ話との繋がりでは,今日物語歌とされる多くの歌がうわさを歌うことから出発し,それが伝説化していく姿を描いた。そして,昔話の関連では,まさに日本文学史でいうところの歌物語の世界があることを述べた。

[目次]

はじめに

 奄美の歌謡と説話の関係を論じたものは,決して少ないとはいえない。特にノロ(祝女)やユタ(巫者)といわれる職能的なカミンチュ(神信仰をする人たち)*1が伝える神話は,実際は大方が歌謡の形をとって表現されるものであり,神話を扱うことは,すなわち,神歌を扱うことになるのである。その代表的なものとして,山下欣一,藤井貞和等の著作*2が,あるいは奄美だけを扱ったものではないが小野重朗,外間守善,谷川健一,福田晃等の著作*3があげられ,主たる問題は一応出し尽くされたといってもよいと思う。
 今,残る問題は,民謡と説話との関係である。
 ここで民謡とは,カミンチュなどではない一般的な人々が,仕事や行事や遊びの場で歌ってきた伝承的な歌と規定するなら,その詞章は,多く短詞形の歌謡だといってよいと思う。もっと具体的にいうなら,奄美の民謡は個人対個人,ないし集団対集団の掛け合いで歌われることがほとんどであったから,叙情歌的傾向を帯びているのは当然で,もともと神話を歌っていく神歌のような長詞形叙事歌とは全く性格を異にしていたということである*4
 しかし,奄美の民謡には,物語歌とでもいうべき歌があって説話の世界と無縁ではない。これまで,私も民謡と説話の関係について断片的に扱ったことはあるが,系統立てて論じたことはなかった。*5本稿はこれまでの拙論を整理するとともに,問題の在りかを提示しようとするものである。
 なお,本稿では「神話」「伝説」「昔話」「うわさ話」という用語を使う。これを奄美の伝承説話に該当させること自体,問題ありとされるかもしれないが,私は,歌と話の問題を考えるのには,一つの目安として有効だと思っている。なお,これらの概念規定は,研究者によって必ずしも一致するようではないが,そのつど諸家の考え方*6に,若干の私説を加えて提示することとしたい。もとよりどんな定義も,あらゆる説話に機械的に当てはまるわけではなく,ある系統の話が,ひとつの土地では伝説のように語られているのに,別の土地では昔話として語られていたり,また,一つの話の中に,神話的要素や伝説的要素などが混在していることも大いにありうるということは,あらかじめ認識しておかなければならないことである。

1,神話が生んだ民謡「上がれ世ぬはる加那節」をめぐって


 南島の神話は,いまや「民間神話」という言葉*7でいわれることが普通になったが,本稿では「神話」を,次のようなものとして扱いたい。

(1)語り手,聞き手は,それを「真実」の話と意識していること。
(2)登場者は,主として人間以外の神々であること。
(3)かれらが登場する時代は,世界が完成する以前の「神の代」であること。
(4)その場所は,主に完成以前の世界であること。
(5)伝承者は本来的には聖なる語り手であること。
(6)主題は,宇宙や国土や人類や文化の起源であること。
(7)話の叙述は,主に歌謡などの形式をとること。

 このような観点からすると,先に触れたように,奄美ではノロ,ユタなどといわれる人たちの神歌の多くが,そのまま神話であるといってもよいのだが*8,さて神話につながるいわゆる民謡を探すと,今のところ,奄美大島のシマウタ「上がれ世ぬはる加那節」しか,思い当たらない。しかも,その両者の関係は,未だ全くもって分かっていないというのが現状である。
 ここに先ず,この歌の歌詞を掲げておく。

上がれ()ぬはる加那(かな)
何処()に村ぬ(いに)カロ那志(がなし)
うま()ちゃめひこじょ加那
てるこくまよし

てるこから()りて
今日(きゅう)三日(みきゃ)なゆり
三日(むど)四日(ゆふぁ)戻りしゅん人ど
()しゃ(かな)しゃ

てるこがで(とよ)だる
いにとぅはる加那
なるこがで轟だる
くまよしひこじょ加那

ぐしくから()りて
申時(さんとき)ぬ限り
(たる)によこされて
なまやちゃ一る

天上の世のはる加那は(加那=愛称)
何処の村の稲加那志か(加那志=尊称)
それをみたかひこじょ加那
てるこ(聖所)くまよし(不詳語)
てるこから下りて

てるこから下りて
今日で三日になる
三日戻り四日戻りする人に
逢いたい愛しい

てるこまで轟いている
いに(稲の意か)と はる加那
なるこ(聖所)まで轟いている

まよし ひこじょ加那

ぐすく(聖所)から下りて
申の刻(夕方)の限り
誰に誘惑されて 今来たのか

*9

 この歌は,いくぶん軽快な感じがして,島でも祝いの席に相応しい歌と考えられているが,島の巫術者,ユタが,正式な儀礼が済んだあとの,いわばなおらいともいうべき席に,よくこの歌が出てくるのは注目すべきであろう。けっしてユタの儀礼そのものと直接関係ある歌ではないが,この歌の主人公「はる加那」を自分たちの先達とイメージして,歌ったり聞いたりしているのではないだろうか。
 ところで,今掲げたこれらの歌詞は,「はる加那」賛美の歌であることは想像できるが,いったい回りにどういう人たちがいて,はる加那自身何をしたのか,諸々の状況はよく分からなくなっている。
 それと,この4首とも,もともと「はる加那」を歌った歌詞であるかどうかも,大いなる疑問である。承知のように,奄美のシマウタは,掛け合いで歌われる。従って,前に誰かが歌った歌詞と少しでも同じ言葉や,似た状況の文句があればすぐにそれを歌うのは,ごく普通のことなのである。従って,この歌の特に4首目の歌詞については,何人かの研究者が,全く別の歌の混入とみなしているのだが,私もそのように考える。
では,この歌と離れて,「はる加那」が登場する話は豊富に残っているのだろうか。私が知る限りでは三系統の話しかない。一つは,登山修氏が瀬戸内町古仁屋で採集したもので,要約すると次のような話である。

 アガレンハルカナは何処からか,イニャダマ(稲霊)を盗んで来て,名瀬の北のほうの畑で稲を作ったら豊作になった。ところが,それは盗んできたものだという悪い噂がたった。
 それで親は,ハルカナに死んだほうがいいといって,親自らが七川七谷の川の水を汲んで来て,それでハルカナの体を清め,さらにシトギミズを作って,体の中まできれいにした。そしてハルカナは死に,稲霊の神になった。
 それゆえ,穂掛け行事の時には,米の七粒の稲霊をもってきてするようになった。  なお,正月の餅は必ず三つ重ねて供えるが,下の大きな二つは親で,一番上のがハルカナである。ハルカナは子供だが,神になっているので親達を守るのである*10

 この話と,前掲の歌詞と照合するなら,はる加那が「稲加那志」と歌われている理由ははっきりとする。
 次に,これらの文句に出てくる「てるこ」「なるこ」とは何を意味するのだろう。先学によれば,この両者は対語ととらえられるべきで,奄美では海の彼方の想像上の聖なる場所のことであり,それは沖縄の「にらい・かない」や,奄美各地の「ねりや」「ねら」「にら」などとほとんど重なるものとされる。*11
 そして,特に奄美大島や加計呂間島では,ノロ達が旧暦2月のしかるべき日にてるこ・なるこから神を迎え,4月にはその神を送り帰す儀礼がある。それが「ウムケ(お迎え)」「オホリ(送り)」といわれるもので,同様のことが,稲が実をつけ始める「アラホバナ(新穂花)」行事の前と後にも,オムケ,オホリの儀式が行われたというのである。*12
 つまり,テルコ・ナルコの神は稲作に関与する神であることは確かであり,はる加那もテルコ・ナルコから稲を盗んで,人のためにやってきた神だと考えることもできるのである。さらにいえば,この歌の「上がれ世」が,テルコ・ナルコだということになる。
人間にとって貴重なものを,聖なるところから盗んでくるモチーフは,ギリシャ神話におけるプロメテウスの火盗みの話と同じだが,奄美には,はる加那の稲種盗み以外に,いくつかの稲種盗みの話がある。
 沖永良部に伝わる「島建て国建て」神話もその一つである。

 この話の主人公「島クプダ・国クプダ」は,島作りも,人作りも終えて,いよいよ,ニラの大主に,人のため稲籾をくれという。すると「初穂祭りをしてからやろう」というのだが,彼は待ち切れずに,田んぼ穂を摘んで袂に隠してニラの島から帰る。ところが,途中,追いかけてきたニラの神に追いつかれ,打ち倒されて死んでしまう。
 天の神は心配して使いを出して探し出すが,やはり目こぼれ鼻こぼれして死んでいたので,使いのものは薬を飲ませると生き返った。天の神は事情を聞いて,島クプダ・国クプダに盗んできた稲を返させる。そして「初穂祭り」を済ませたあとに稲種を貰ってくることができた。その稲が,島に昔からある「アサナツヌヨネゴンダネ」である。*13

 結末は,はる加那が死んで稲の神様になり,島クプダ・国クプダは,いったん死んだ後生き返って再び,しかるべき手続きを経て人の世に稲をもたらすという,大きな違いはある。しかし,その根っ子においては,同じ話であるといえよう。
 さて,残る2つの話は,いずれも婚礼における「三日戻り」に関したものである。先ず大和村大和浜出身の民俗研究家,長田須磨氏が報告している話をあげる。

 昔,神の国テルコから,ヒヤンザの国に男ばかりがやってきた。その時,ヒヤンザの男たちはみな山に逃げ,女ばかりが残った。そのうち「あがるいのはる加那」と「〈まよし」が良い仲になった。それを初めは隠していたが,3日目に周りのものに打ち明けて祝いをした。
 それが,3日目の里帰りの始めである。*14

 この話のヒヤンザは,おそらく奄美の神歌によく出てくる沖縄の現与那城村の平安座*15のことと推定されるが,とすれば,はる加那は,「上がるいの」と形容されながらも,人間世界の女ということになる。三日月の里帰りを「ミキャモドリ」といういいかたは,今も記憶する人がいるくらい,近年まで行われた風習だが,この話はその起源説話だといえる。次にあげるのは,恵原義盛氏が,沖縄の一般向け雑誌に発表されたものだが,おそらく氏の郷里,名瀬市根瀬部近辺に伝わっていたものと思われる。

 「あがれよ」とは天国のこと。はる加那は天上から稲の種を持ってきた女だが,地上で「ひこじょ加那」と結婚する。天上には「くまよし」という夫がいて,はる加那の帰りを待つ。かつて婚礼の日から3日目に,ミキャムドリ(3日戻り)と称して里帰りするものだった。そして,その日に初夜を営むのが習慣であった。しかし,はる加那には里帰りが出来なかったので,ひこじょ加那はいつまでたっても同衾がかなわず嘆いたという。*16

 「稲の種を持ってきた女性」ということでは,最初の話と一致するが,全体的に神女不犯説話といってよい。
 そして,二人の男性「ひこじょ加那」と「くまよし」についていえば,ひこじょは人間世界での夫であり,<まよしは天上の夫だという。
 そこで,子細にシマウタ「上がれ世ぬはる加那節」とこれら,ミキャムドリを主題とした二つの神話と比較すると,それらは必ずしもすっきりと重なるわけではない。歌の文句からは,ひこじょ加那とくまよしは,聖なる神女を遠くから眺める人のように思える。また,三日戻り四日戻りも,歌の中では婚礼とはほとんど関係なさそうである。
 以上のことを考慮すると,歌が先にあって,それを説明するために,後にこのような話が付け加えられたのではないかという結論に導かれるのである。といって,これらの話は全く無価値であるとはいえない。少なくとも,はる加那は,テルコと人間世界を結びつけることのできる神女と認識されていたことが明らかになるからである。
 ここで,本稿の中心テーマである歌と説話の関係に問題を絞ると,「上がれ世ぬはる加那節」が,いったい何をもとに生まれたのかという問題は謎のままである。具体的にいえば,この歌のもとになった神話が,ただ語られるものだったのか,神歌としての長詞形叙事歌だったのかということである。はる加那が登場する神歌は,今のところ見つかっていないので,語られていた話をもとにつくられたと考えるのが自然だが,ただ,「上がれ世ぬはる加那節」の詞形を考えるとき,別の結論が導かれるのである。

 そこで,再びこの歌の歌詞をあげて,その音数律を示してみよう。

あがれよいはるかなや
だにむらぬいにがなし
うまみちゃめひこじょかな
てるこくまゆし

てるこからうりて
きゅうどみかなゆり
みきゃもどりゆふあむどり
しゅんちゅどみぶさかなさ

てるこがでとよだる
いにとはるかな
なるこがでとよだる
くまよしひこじょかな

ぐしくからうれて
さんときぬかぎり
たるによこされて
なまやちゃ−る

10音(5・5)
10音(5・5)
10音(5・5)
6音(3・3)

8音(5・3)
8音(5・3)
10音(5・5)
10音(5・5)

9音(5・4)
7音(3・4)
9音(5・4)
10音(5・5)

8音(5・3)
8音(5・3)
8音(5・3)
6音(3・3)

 4首目以外,8886調のいわゆる琉歌調ではないことが,一目瞭然である。またこのことは,「上がれ世ぬはる加那節」では,琉歌調歌詞も歌うことができるが,実はそれが基調ではないことを教えてくれる。最初に述べた通り,この4首が最初から「上がれ世ぬはる加那節」とは結びついたものではなく,特に4首目の歌詞は後からの混入であるとする理由は,この音数律の面からもいえるのである。
 そこで,l〜3首の音数律をみてみると,5音句が連続して出てくることに気づく。特に1首目はそうである。実は,この現象こそ,奄美,沖縄を通しての長詞形叙事歌の特徴の一つだともいえる。しかも,シマウタ「上がれ世ぬはる加那節」は,これを踏襲することにこだわった節も濃厚である。話のなかでは,「上がれんはる加那」と,8音でいわれる。
 しかし,それに「世ぬ」を挿入して10音(5・5)にしたのは,それでなければ落ち着かなかったからであろう。従って,「上がれ世ぬはる加那節」の前には,長詞形の神歌があったといわざるを得ないのである。このように,長詞形叙事歌から短詞形歌詞が生まれた例は,決して多いとはいえないが,ほかにないわけではない。次項に「うらとみ節」(一名「むちや加那節」)を扱うが,そこで触れるつもりである。
 最後に,このシマウタが人によって,土地によって「上がれ日ぬはる加那節」ともいわれていることについて述べておきたい。むしろ,この方が通りがいいと思えるくらい,知れ渡った曲名で,無視することはできないからである。
 意味からいうと,「上る太陽のように神々しいはる加那」となって,実在の人物のようなイメージを与える。現に,奄美民謡研究の先達,文英吉氏は「差し昇る朝日にも譬うべき身分の高い祝女をうたった歌である」といっている。*17
 しかし,はる加那が実際にいた人物だという話は,全く聞かれない。おそらく「上がれ世ぬはる加那」のほうが古い呼称で,いつか「はる加那」を現実の人にしたい気持ちが「上がれ日ぬはる加那」という呼称を選んだのだと思う。それと,「上がれ世」の「世」は「夜」ともとれる。その紛らわしさが,「日」という言葉に変えたと,とれないこともないだろう。
 いずれにせよ,「上がれ世ぬはる加那」から「上がれ日ぬはる加那」への変遷は,神話から伝説への変化にも思えて興味そそられる。

2,伝説,うわさ話と民謡との関わり

 伝説とうわさ話を−つの章でくくるわけは,両者の境界がきわめてあいまいだということもあるが,奄美の場合,民謡で歌われたうわさ話の多くが,やがて伝説化していくという事情とも関係する。ここでも先ず前章にならって,伝説とうわさ話の定義をしておきたい。なお,うわさ話は,民俗学で世間話ともいわれるそれと同じものと考える。

《伝説》
(1)語り手,聞き手は,それを「事実」として認識していること。
(2)登場者は,主として人間。
(3)その時代は,歴史上のある時代。話者は過去形で話す。
(4)場所は,現在と同じ世界。
(5)伝承者は主に村の長老。
(6)話の主題は,事柄や物や場所の由来。
(7)話の叙述形式は特にない。

《うわさ話》 (1)語り手,聞き手は,「事実」の話と意識していること。
(2)登場者は,主として人間。
(3)時代は,近,現代。話者は現在形で話す。
(4)場所は,実在の所。
(5)伝承者は,かつては旅の世間師が主であったが,昨今は庶民。
(6)話の主題は,特異な現実。
(7)話の叙述形式は特にない。

 結局,伝説は過去形で語られ,うわさ話は現在形で語られるというのが,決定的な違いで,あとはきわめて近似したものと考える。よって,これが歌になって伝えられていくとき,当初は,単なるうわさ話であったものが,伝説化して固定するということが多くある。  従って私たちは,いつの時点で,うわさといい,伝説というのか,それを明確にすることが必要となってくるのである。
 そこで,伝説とうわさ話と民謡との結びつきを考え,実例を示す前に,その関係のパターンを抽出してあげておこう。

(1)伝説をもとに歌われた民謡
(2)うわさ話をもとに歌われた民謡
(3)先行の歌謡とうわさ,ないし伝説が混合して生まれた民謡
(4)民謡をもとに生まれた伝説
この順にそって,考察をすすめよう。

(1)伝説をもとに歌われた民謡
 このケースは,伝説をどの程度厳密に定義するかで変わってくるが,先述の通り過去形で語り伝えられてきた歴史的な事柄を伝説とするなら,それを歌った民謡というのはそれほど多いとはいえない。
 例えば,次のようなものである。

雲姿見ちむ 鳥の声聞ちむ
敦盛のことや 忘れ苦しや

深山(みやま)吹く風や 風だむそ(かな)しや
敦盛がことや 忘れならぬ

雲の姿を見ても 鳥の声を聞いても
敦盛のことが 忘れがたい

深山に吹く風は 風でさえ懐かしい
敦盛のことが 忘れがたい

*18

 いうまでもなく,悲劇の将,平敦盛を歌った歌である。島に敦盛がきたという伝説こそ残ってはいないが,平家の落人伝説は根強くあって,この歌詞もおそらくある時代,島の知識人が平家への思いを汲んで歌ったものに違いない。
 なお,敦盛を歌った民謡は本土にも広くあって,その一つの流れが,奄美大島加計呂間の諸鈍芝居のなかにも入っている。パントマイム風の円陣踊りの歌「ここわ節」がそれである。

ここは何処かと船頭衆に問えば
須磨の泊の敦盛様え−
()何処(どこ)かと 薄原(すすきはら)しゅがえ
(うや)()ぎ子は 磯辺(いそべ)の千鳥
夜暮れ日暮れはいしょすでちぶろ *19

 先の文句もこうした歌の影響がなかったとはいえないだろう。
 次のは,沖永良部島に古く実在したとされる英雄,後蘭孫八を歌った歌である。

後蘭(ぐらる)孫八(まごはち)が 積み上げた(ぐすく)
永良部三十(みす)祝女(のろ)が遊びどころ

後蘭(地名)の孫八が築いたお城
沖永良部の三十人のノロたちが遊ぶ聖所

*20

 この孫八も,たまたま平家の落人だったという伝説があるが,ある時代,沖縄の北山王の次男真松千代が沖永良部の島主となったとき,孫八に築城を命じ,彼は見事それに答えたというのである。かつての城は単なる軍事的要塞ではなく,ノロなどの神女が祭りごとを行う場でもあったことが知れる。ともかく,敦盛の歌以上に,島の人々に実感をもって歌われた文句であることはたしかである。
 もっと身近な人物を歌った歌に,シマウタ「儀志直節」の次のような歌詞がある。

儀志直(ぎしなお)(ふし)や 島中(しまじょ)とよまれて
とよまれる(ごと)に ()胸焼きゆり

儀志直の節は 島中に轟いて
轟くごとに 私の胸のうちは痛くなる

*21

 この儀志直は,歌,三味線にはすぐれていたが遊び人でもあり,晩年は気が触れて座敷牢に入れられ,そこから失火して彼も焼死してしまう,という伝説上の人物である。
 実は,この歌詞を,そうした伝説を歌ったものとみるか,儀志直全盛時代の,一つのうわさとして歌われたものとみるか,意見の分かれるところである。
 もし前者だとすれば,「世に轟く儀志直節を聞いて,彼の悲劇を思い出し,胸が痛む」ととれるし,後者だとすれば「儀志直の歌は,今や島中に轟き渡って,それを聞くと胸が痛むほど感動する」といった意味になる。
 研究家の恵原義盛氏は,「この歌詞は後世にできたものとみられる」といい*22また,昭和8年発行の文朝光の著書*23にもこの歌詞は出ていない。異説はあるかもしれないが,儀志直の話が伝説となったあとにできた歌詞という意味で,私は伝説歌に入れておきたい。
 では,この曲自体が,もともと儀志直伝説を歌ったものかといえば,そうではない。

佐仁(さに)にさねまれて 屋仁(やに)にやまされて
あたら儀志直ば 道に立てて

佐仁の娘等にきらわれ 屋仁の娘等に病まされ
勿体ない儀志直を 道に立たせてしまって

*24

のように,あちこちのシマ(集落)の娘に手を出すものだから,ついにしめ出しを食って道に立つはめになった儀志直が,現在形で歌われているのである。
 純然たる伝説歌は,その歌詞からだけでは正確に把握できないものもあるが,多くの歌詞の中に探せば,もっと発掘できることは確実である。

(2)うわさ話をもとに歌われた民謡
 奄美民謡の場合,今日では迷うことなく伝説歌といってよいようなものも,当初は,うわさを歌ったものがほとんどであったというのが,私の基本的な立場である。
 先ず,現在私たちが聞いても,うわさ話の域を出ないような歌の文句をいくつかあげてみる。

うんにゃだるや()(むん)ぢゃ ()()
(くわ)ば はん投げて
殿(との)刀自(とじ)なりが 赤木名(はきな)走いくらて

うんにゃだるは馬鹿者だ 乳飲み子を投げて

薩摩の殿の島妻になろうと 赤木名に走りくさった

*25

 奄美大島のシマウタ「うんにゃだる節」の打ち出しの歌詞である。赤木名はかつて代官所がおかれたところで,薩摩から来た役人もいたところとされる。彼女は,その誰かの島妻になるために赤木名に走った,と歌っているのである。うんにやだるの素姓はよく分かっていないが,

うんにゃだるとかぜらん主と まんこいする&ruby(ゆる)夜や
冬ぬ夜ぬ二長}げ あちら&ruby(たぼ){給(にな)

うんにゃだるが (はら)だる(くゎ) おそろてにすれば
きよき主が来てやおろしならん

うんにゃだるとかぜらん主とが 愛しあう夜は(主=敬称)
冬の夜の二倍くらい長くあって欲しい

うんにやだるが妊娠した子を堕胎しようとしたら
きよおき主が来て堕してはいけない,と

*26

のような文句もあり,余程うわさの対象になりやすい女性であったことが知れる。
 次のは徳之島,亀津近辺に伝わる「うっしょ原ちょうきく節」の歌詞である。

盛高(もい)
おーだに盛ぐわぬ 盛高き
(うと)高さ
いんだぐゎとまんぐゎた 音高さ

でんが()たんが
いんだぐゎとまんぐゎたと 良たんが
まんぐゎだろ
いんだぐゎや歯()ちやげて まんぐゎだろいんだ

盛(小高い岡)の高さ
おーだに盛の 盛の高さ
音(評判)の高さ
いんだぐゎ(娘の名)と,まんぐゎ(同)の 評判の高さ

どっちが良い娘か
でんがいんだぐゎと,まんぐゎたとではどっちが良い娘か
まんぐゎの方だろう
いんだぐゎは歯が浮き上がっているからまんぐゎだろう。

*27

 このようにうわさの対象は,特定の人物である場合が多いが,もちろん土地や事件もその対象になった。

諸鈍(しょどん)女童(めわらべ)ぬ いきや(きょ)らさあてむ
(ぬぬ)()らちみれば ゆがたひがた

諸鈍の娘たちは いかに美人だとはいっても
布を織らしてみれば 歪んだりひがんだり (奄美大島のシマウタ「諸鈍長浜節」でよく歌われるもの)

*28

大和浜(やまとはま)()れ口なん 糯米(むちぐみ)御飯(うばん)ぬあんちゃんな
うれが添物(かてむん)茸];・木海月(きくらげ)・さい&ruby(たなが){手長(きのこ)

大和浜の降りロに 糯米のご飯があるということだ
そのおかずは茸と木くらげとたなが(川えび)だ (奄美大島のシマウタ「あんちやな節」で歌われる歌詞)

*29

建ちにゃん車
昔ぬ()からんば 旧藩ぬ世からんば
建ちにゃん車
建ちゃんが不思議
奥名(うんな),(にきゃみじ){苦水};,本川(ほんご)ぬ浦なん
建ちゃんが不思議

建ったのを見たことのない砂糖絞りの車
昔の世から 旧藩の世から
建ったのを見たことのない車
建ったのが不思議
奥名と苦水と本川の浦に
建ったのが不思議 (徳之島のシマウタ「くるだんど節」のなかの文句)

*30

 以上,典型的なうわさ歌をあげてみたが,問題となるのは,現在一つの筋だった物語を伴なって伝えられるいくつかの歌である。
 例えば,「塩道長浜節」という奄美大島のシマウタがある。この歌の歌詞と話は次のようなものである。

塩道(しゅみち)長浜なんて (わらべ)泣きしるが
うれや(たる)(ゆい) けさまつ汗肌(あせはだ)

塩道長浜に 馬繋じ()うかば
いきゃだるさとも うれ取て()るな

塩道の長浜に童が泣いている
それは誰のため汗肌のけさまつのせい (汗肌=肉感的な女性を形容する言葉)

塩道の長浜に馬が繋いであっても
どんなにだるくてもそれを取って乗るな

*31

 昔,喜界島の塩道というシマに,けさまつという美女が住んでいた。彼女は年頃になっても男を近寄せなかったが,そのけさまつに,しつこくいい寄る男がいた。その青年は,ある日,彼女を塩道長浜の牧場で待ちぶせた。そこに彼女が愛馬とともにやって来た時,強引に結婚を迫り,けさまつも仕方なく了承する。ところが,すぐに彼女は男に,連れてきた馬が逃げるといけないから,手綱を足首に結わえきせてくれといい,男はそれに従う。縛り終わるや,けさまつは持ってきた雨傘を馬の目の前で広げたのだった。馬は驚いて,男を引きずったまま浜を駆け巡り,殺してしまった。青年の父親は,夜な夜な浜辺で泣いているのは,浮かばれないわが子であり,浜に馬が繋いであるときは,どんな疲れていてもそれには乗るなと,嘆じたという。*32

 この話を今日私たちが聞く限りでは,けさまつと彼女に迫って殺された男,塩道長浜という実在の場所を説明した立派な伝説である。しかし,この歌の文句が歌い始められた時の状況を想像してみよう。これは,島ではよほど人々を震憾させた話だったに違いない。亡霊が夜な夜な泣いているといううわさも,実際にたっていたのだろう。これは,そのことをリアルタイムで歌ったものだと思われる。
 それに比べて2首目の歌詞は,話が伝説化したあとに歌われるようになったと考えて不自然ではない。
 もう一つ,悲劇的な女性を歌った「かんつめ節」の歌詞と,その話をあげる。彼女を歌った歌詞は20首を下らず,話もかなりの異同があるが,以下はいずれも代表的なものである。

かんつめ(あぐ)くゎが 明日(あしゃ)死のしやん夜は
久慈ぬ佐念(さねん)ぬなんて 提灯御火(うまち)
明がりゆたむんど

()べがれ遊しだるかんつめ姉くゎ
なぁしやが夜なたと
後生が道に御袖振りゅり

かんつめ姉さんが明日死のうという夜は
久慈の佐念山のあたりに,提灯の火の明かり
見えたということだ。

夕べまで一緒に(歌って)遊んだかんつめ姉さんは
その翌日の宵になれば
あの世への道に御袖を振って逝く

*33

 かんつめは,貧しさゆえに豪農のもとに買われて働かされるヤンチュ(家人)であった。彼女は,長柄のさる農家で使われていたが,その主人が,ひそかに彼女を思っていた。しかし,かんつめには,やがて岩太郎という隣村久慈の青年と恋仲になり,夜になると佐念山の小屋に出かけて,逢引を重ねた。それがある時,主人夫婦が知るとことなり,彼らは散々な折檻をする。ついには主人の妻が嫉妬心もあって,かんつめのほとに焼き火箸を当てる。かんつめは,もう岩太郎との恋もかなわじとして,いつもの逢引の場所で自ら首を括って果てた。*34

 これも今では伝説である。一説によれば,「かんつめ節」のもとは,かんつめが生前得意としていた「草薙歌」だといい,もう一つの説では,長柄の奥宮某という歌人が作詞作曲をして歌い始めたともいう*35。前説は,すでに確認されている。「草薙歌」とは,今もシマウタの一つとしてよく歌われる「飯米取り節」のことであるが,これと「かんつめ節」の旋律がきわめて類似していることは,疑いようがないからである。  もう一つの作詞作曲者がいるという説も,無碍にはしりぞけられない。作曲といっても,当時は今でいう独創的な作曲とは違って,ある歌を自分流に編曲して歌ってもそう伝えられる可能性はあったと思う。奥宮氏が,始めて「草薙節」にかんつめの文句を歌った人だと考えても,不思議はない。
 ただ問題は,「かんつめ節」の歌詞群を,うわさ歌と見てよいのかどうかということである。私は,今掲げた2首についていうかぎり,かんつめが袖を振ってあの世に旅立つ姿を,うわさ話の形で伝えたものだと考えている。今残る,かんつめに関する歌詞のなかには,過去の物語を反芻する形で歌ったものもあることは確かだが,多くは,一つの出来事をリアルタイムに伝達する形で歌われたと思うのである。
 ここで,かかる「うわさ歌」がどのような場で生まれたのかということを,考えてみよう。それは,−人の人間が個室に寵って,頭を絞って作詞,作曲するというものでは決してない。あくまでも,複数の人たちが寄り集まって,即興的に歌を出しあっていく,「歌掛け」が基本である。珍しい事件が起これば,世間の四方山話の一つとして,それが歌われるのは当然ではないだろうか。
 なお,「かんつめ節」も,先の「塩道長浜節」も,最初から室内で三味線を伴奏に歌われるシマウタではなく,野外の仕事歌であったことが分かっているが*36,私はこのことに大きな注意を払うべきだと思う。音楽的にいえば,仕事歌は,テンポとリズムが優先されるもので,感情移入のきわめてしにくい歌である。ということは,すでに伝説となった物語を,情緒綿々と歌うには,とても不向きな歌だということである。
 現在「かんつめ節」や「塩道長浜節」が,悲哀に満ちた歌い方がなされるのは,長い間の歌の洗練の結果であることを知るべきだろう。いい方を変えれば,歌う人々が感情移入をして,歌を物語の内容に合わせてきた結果なのである。
 今も,名もない古老が歌う「かんつめ節」を聞くと,たんたんとした語りだけの調子で,悲しさをほとんど感じさせないものがある。その歌い手にとっては,まだ,かんつめについての「うわさ」を歌っているという気分なのだと想像される。
 以上のように,今まで物語歌,伝説歌と思われていた歌も,その多くの歌われ始めは,うわさ歌だったという結論に戻る。
 ところでこのパターンに該当する歌はどれほどあるだろう。それに答えることは不可能である。前も述べたように,奄美民謡は掛けあいで歌われるから,歌詞単位に,うわさ話に関したものをあげるとすれば,それは膨大なものになるからである。ただ曲名で分かるうわさ歌,すなわち,うわさを歌ったと推定される歌詞が曲名となっているものをあげるとすれば,それは比較的容易である。
 かつて私は,自著*37で,奄美大島から与論島までのシマウタ70曲を掲げ解説したことがある。そのうち,人物や場所,事件等がそのまま曲名になっていて,しかも,主要な歌詞がうわさを歌っていると推定されるものをあげてみると,次のようになる。(「○○○○節」の「節」は省略する)

《人名が曲名になっているもの》「俊良主(しゅんじょしゅ)「うんにゃだる」「かんつめ」「(うけ)くま慢女(まんじょ)」「いそ加那(かな)」「嘉徳(かとく)なべ加那(かな)」「こうき」「儀志直(ぎしなお)」「ちょうきく」「国直(くんにょり)よね(あご)」「うっしょばる(ふう)ちょうきく」「あむろぬ慢女」
《実在の場所が曲名になっているもの》「諸鈍(しょどん)長浜」「塩道(しゅみち)長浜」「徳之島(犬田布(いんたぶ))」「(さん)与路(よろ)島」「三京(みきょ)(−名,三京ぬ(くし),三京ぬ裾山(しゅしゃやま))」「(いんたぶ){犬田布};れ−」
《事件が曲名になっているもの》「ちじょ割れ」

 うわさ歌はシマウタにとどまらず,八月歌などの行事歌や各種仕事歌にも多くみられる。奄美民謡においてうわさ歌が主要な位置を占めていることは,もっと認識されるべきことであろう。

(3)先行の歌謡と,うわさないし伝説が混合して生まれた民謡
 1の「民謡と神話」の章で,「上がれ世のはる加那節」とその神話が,今は消えてしまった先行の神歌に依るものではないかと推論したが,本項では,うわさ,ないし伝説と先行歌謡の問題を考えてみたい。
 先ず,奄美大島のシマウタ「うらとみ節(−名,むちや加那節)」の場合をみてみる。その歌詞と伝説を例示する。

うらとみやうらとみ
(むど)らめやうらとみ
うらとみ戻しゆしや
しまぬ()(むん)

うらとみ(女性名)や,うらとみ
戻らないか,うらとみ
いや,うらとみを戻そうとする者こそ
シマ(集落)の馬鹿者だ

*38

喜界(ききゃ)小野津(おのつ)
十柱}:むちゃ&ruby(かな){加那(とばや)
(あお)海苔(ぬり)剥ぎに
いもろやむちゃ加那

喜界は小野津の
十柱(字名)の,むちや加那よ
青さ海苔を採りに
海に行こうよ,むちや加那

*39

 薩藩時代,鎮西村(加計呂間島の約半分に当たる)生間にうらとみという若く美しい娘がいた。薩摩の代官が赴任してきたとき,彼女の評判を聞いて,島妻になるよう使いを出した。しかし,うらとみは操の堅い女でそれを拒む。面目丸潰れの代官は,その後,うらとみ一家に重税を課するなどことごとく圧迫を加えてきた。そこで,一家はうらとみを,生きながら葬る決心をして,通夜舟というのを作り,むりやりそれに乗せて海のかなたに流してしまう。
 いく日か漂流を続け,着いたところが喜界島の小野津の十柱といわれる海岸であった。ここで,島の有力者が身元を引き受けようというが,うらとみは,ある百姓家に身を寄せ,やもめだったそこの主人と一緒になる。なか陸ましく幸せな生活が続くとみえたが,うらとみが美しかったがゆえに,島の女たちの嫉妬や横恋慕して拒否された男たちは,うらとみを島の撹乱者とみなして,生まれシマに帰れというようになった。この時,村の長老はこんな貞節なうらとみを,戻そうなどというのは島の馬鹿者だと宣言する。「うらとみやうらとみ〜」の歌詞は,そのことを歌ったのものである
 こうして幸せな生活に戻り,やがて,むちや加那という娘が生まれた。彼女も成長するごとにきれいになっていく。ここで再び村人の心に嫉妬心が起こり,むちや加那を折にふれなきものにしようとする。ついに,ある日,友達が海岸に誘い出し,青さ海苔を採っているところを海に突き落としてしまうのだった。母のうらとみは,狂気して娘の行くえを探すが,見つかるべくもなく,自らも入水自殺をはかる。*40

 この話には多くの異説がある。坂井友直は次のような伝説を報告している。

 生間(同著には「生馬」とある)に17,8になるうらとみという美女がいた。最初,郡奉行が思いを掛けるが,それを拒んだ。彼は重税などを課し恨みをはらす。彼も任期を終えて,代わりに喜界島に派遣される代官某に,うらとみのことを話すと,代官も気を動かし喜界へ行く前に生間に寄って,うらとみに島妻となることを申し出る。すると見事に叶えられ,そのまま赴任地の喜界島に行き幸せに暮らす。ところがまた,彼も3年目の任期が来て別れることになるが,与人(島役人)に,うらとみを生間の実家に送り返すように頼む。
 ところが,頼まれた与人も,妻ある身でありながら,うらとみに思いを寄せ,妻とは離縁してうらとみと一緒になる。そうして生まれたのが,むちゃ加那であった。やはり彼女も美形であった。ここで,先妻が嫉妬しうらとみ,むちや加那母子を殺害しようとたくらむ。ある日,むちや加那が友達に誘われて青さ海苔を採りに,海に行ったとき,先妻が海に突き落としてしまう。うらとみは,海山と探していたが見つからずに,やがて死んでしまった。 *41

 母子の死という結末は同じだとしても,うらとみの前半の話は余りの変わりようである。  さらに,この伝説を追った民謡研究家,仲宗根幸市氏は,うらとみ,むちや加那が母子であるという話以外に,次のような伝承のあることを記している。*42

(1)うらとみ,むちや加那は同一人物である。
(2)むちや加那の母は,うらとみではなく「あかば加那」である。
(3)うらとみは,むちゃ加那の悲話を語る門付け芸人であった。

 私も,仲宗根氏同様(3)の伝承に大いに興味引かれる。
 ここで,どうしても挙げなければならないのが,むちゃ加那を歌った長詞形叙事歌のことである。
 これまで,文朝光著「奄美大島民謡大観」をはじめとして,数々の本に,むちや加那の海岸での死を歌った叙事詩が載せられたが,それがいわゆる掛け合いで歌われるシマウタでないことは明らかだった。では,誰が,どのような場で歌ったのが本来の形かと久しく考えてきたのだが,門付け芸人の歌であったとすれば,いっきに疑問は氷解するのである。  ここに久保けんお氏が,喜界島の郷土史家,三井喜禎氏の著書*43と,自身の取材ノートをもとにまとめられた長歌「むちやかな節」をあげる。(共通語訳も久保氏のもの)

喜界(ききゃ)や小野津ぬ十柱ムチャカナ
青さ(ぬり)はぎゃに(いも)らムチャカナ
青さ苔はぎゃに行き()しゃや有しが
阿母(あんま)(しら)りてから行かばん()らばん
あんまにしられて見れば
阿母や行lナち言り(じゅ)や居りち言り
祖母ぬ欲どれや桟綛(さんがし)たりりち言り
桟綛たりりば布綾(ぬぬあや)ひらいち言り
布綾ひらえば縦貫(たてぬき)()めち言り
縦貫うめばや水()()きち言り
水汲で置きぱや行きゃばむ()らばむ
行きや行きじゃしが(すば)()(ゆく)()すな
側入り横入りしりば(わらべ)ぬ見ち(かた)ゆんど
童ぬ物()(むん)苦芋(ゆごむち)うち()ろしゅん
十柱(しばや)ムチャカナ見りゃんたみ親鳩
谷々浦々(さくざくうらうら)なんにゃ赤牛(あーぶし)黒牛(くるぶしゃ)()すが
うりん訊ねてん見ち言ちゃむ
潮尻(しゅーじり)()かさったんち言ちゃむ
蒲葵(くば)ぬ立ち美さや眞與路(まよろ)池上(いけんうィ)ぬ蒲葵
松ぬ立ち美さや眞於済(まうせ)ぬ寺上ぬ蒲葵
うりが片枝(かたゆだ)なんや青鳩ぬ止まとむ
浦々&ruby(さくざく){迫々}:なんや青鳩親鳩ぬ止まとむ
十柱ムタヤ加那や見りゅんたみ
(しゅー)や満ちあがり太陽(てだ)申時(さんとき)さがりゆむ
十柱ムチャ加那や潮尻(しゅじり)かち(ひか)さったむ

喜界小野津の十柱むちや加那
青のり摘みに行きましょう
青のり摘みに行きたいけれど
母に尋ねて 行くも行かぬも
母に尋ねてみたところ
母はいけという父は居れという
祖母の欲たれカセ張れと
カセをたれれば綾ひろえ
綾をひろえば貫うめと
貫をうんだら水汲めと
水をくんだら行こうと居ろと
行ってよいが傍道するな
わき道するとガキ共 物言う
物言うガキには苦芋くわせろ
ムチャカナ見ないか親鳩よ
谷間や浦の赤牛黒牛
それに尋ねて見てという
赤牛黒牛の聞いたらば
青鳩親鳩に聞けという
青鳩親鳩に聞いたら
潮に曳かれて行ったという
蒲葵の見ものは與路の蒲葵
見るべき松は於済の松
その片枝に鳩がいる
谷間に浦に鳩がいる
ムチャカナ見ないか鳩達よ
潮は満ちくる夕まぐれ
ムチャカナ哀れ海の底

*44

 むちや加那は青さ海苔を摘みに行こうと誘われ,母や祖母のいいつけた仕事を終えて出かける。ところが,帰って来ない彼女を探しに出た母は,道すがら牛や鳩に聞いてみると,潮に流されてしまい,今は海の底だ,というストーリーである。
 音数律は一定しないが,対句がいくつかみられ,奄美の地名が出てきたり,島の方言で歌われているところから,これを歌っていた人がシマンチュ(鳥人)であることは疑えない。
 ただ,ここには,うらとみという名前は全く出てこない。むちや加那が誰かによって海に突き落とされたという話も,片鱗すら歌われてはいない。ただ,冒頭の2句からシマウタ「むちや加那節」の歌詞の一つが生まれたことだけは明かとなった。
 このことは,いったい何を意味するのだろうか。
 かつて,喜界の小野津の十柱に住むむちや加那という娘が,海で溺死したことだけはおそらく事実であろう。それが門付けをする歌い手によって歌われた。その長詞形の歌が短詞形のシマウタになる過程で,あるいはシマウタになってから,人々は周辺に起こったありとあらゆる出来事を総動員して,今の伝説を作りあげていったのだというのが,一番正しい見方だと思う。
 先行の長詞形歌謡をもとに,新しい歌詞とそれにうわさや伝説がついた例をあげたが,これは奄美民謡の中では稀なケースである。もしこれが,大きな流れとして認められるならば,南島歌謡史における「長詞形叙事歌→短詞形叙情歌変遷説」も説得力を持つことになろう。
 しかし,「うらとみ節」のように,はっきりとそれと分かるものは,ほんの僅かだといわなければならない。
 次に挙げたいのは,奄美大島のシマウタ「嘉徳なべ加那節」の例である。今ある歌は,うわさ歌,ないし伝説歌と認められるが,これには明らかに短詞形の先行歌謡が存在する。
 先ず現行「嘉徳なべ加那節」の歌詞をあげる。

かどくなべかなや
いきゃしゃる生れしゅてか
親に水くまし
ゐしゆて浴める

かどくなべかなが
死じゃる聾きけば
三日やみき作て
七日あそぼ

かどく濱先に
這ゆる磯かづら
通い先やねらぬ
天にかへろ

嘉徳のなべ加那は
いかなる生まれをしたのか
親に水を汲まし
自分はいながらに水浴する

嘉徳なべ加那が
死んだといううわさを聞けば
三日はみきを作って
七日間は遊ぼう

嘉徳の浜崎に
這っている磯葛
這う先がなくなったら
天に戻れ

*45

 この「嘉徳なべ加那」に関する話は,諸説あって,「奄美大島民謡大観」はじめ,多くの人たち,多くの地域では,なべ加那は,親に水汲みをさせるまでの親不孝者であり,そのため彼女が死んだと聞けば,親不孝者がいなくなったという喜びで,島中の人が遊んだ,というものである。この話が行き渡っているところでは,親不孝するなという意味で「なべ加那するな」といういい方すらあるようである(例えば笠利町佐仁)。
 これに対し,なべ加那は,実は親にも水を汲んでもらわなければならないほどの,身体不自由な人であったという人もいる。
 しかし,近年もっとも納得いく説は,金久正が示された,なべ加那神女説である*46。つまり,親に水を汲ませるほど神高い生まれをした女性で,その死を知った島の人々は何日も神まつりをしたというのである。これには「遊ぶ」という言葉の解釈の問題もあって,現代的な意味では娯楽を意味する遊びだが,日本の古語や南島語では,神まつりを意味する,というのである。3首目の文句も,神女なく加那が天に帰ることを象徴的に歌った歌詞ととれなくはない。  なお,この「嘉徳」は本当は現竜郷町の「嘉渡」であるという説や,地名ではなく喜界町の「嘉度」家をさすという説があって,謎多き歌なのである。
 では,この歌の先行歌謡とは何をさすのだろうか。それは,今日奄美の八月歌,徳之島の夏目踊り歌,沖縄のウスデーク踊り,沖縄古典音楽等々に出てくる以下のような歌である。(歌詞のみを記す)

奄美大島の八月踊りの歌「かでくおめらべ」(笠利町用地区の例)

かでくおめらべ
言付(くどち)げぬ煙草(たばく)
またも言付げ
もちれ煙草

かでくおめらば
言付けの煙草
またも言付けの
縒れ煙草

*47

徳之島の夏目踊りの歌「なんごちゆがなびぃ」(徳之島町井之川の例)

なんごちゆがなびぃや
言付(ことぢ)きぬ煙草(たばく)

なんごちゆがなびぃの
言付けの煙草

*48

与論島の十五夜踊り,二番組の歌「くんぬら−」

かどくうみなべ
かくどちきぬ煙
又んくとちきの
もちりたばこ

※訳文省略

*49

沖縄本島のウシデークの歌「加手久節」(名護市安名の例)

加手久(かでく)思鍋(うみなび)
たばく
くとじきぬ煙草(たばく)
にゃひんくとじきぬ
あゆらやしが

※訳文省略

*50

同「金細工節」(国頭村安田の例)

かんぜくうみ
金細工(かんぜく)(うみ)なびよ
くとしきぬ煙草(たばく)
またんことしきぬ
むちり煙草よ

※訳文省略

*51

「琉歌百控」所収歌「早嘉手久節」

嘉手久思鍋か
こと付の多葉粉
又もこと付の
藻列煙草

※訳文省略

*52

 7種の詞章をあげたが,(1)「かでく」に近い文句がでてくること(2)「うめなく」に近い人名があらわれること(3)煙草が出てくることから,これらが系統的にかつて一つの歌詞であったことは明白であろう。そして「嘉徳なべ加那節」は,実はこの系統の歌をもとに作られたことが明らかになってきたのである。
 証拠となるものを−つ挙げると,八月歌「かでくうめなべ」と,シマウタ「嘉徳なべ加那」の歌われ方である。両者を歌われるままに左右に記述してみると次のようになる。

八月歌の場合
 かでくうめなべや
 言付けぬ煙草
 ハレまたも言付けぬ
 (むち)れ煙草
 ヤショヤー
 ハレまたも言付けぬ
 縒れ煙草
 ヤショヤー

シマウタの場合
 嘉徳なべ加那やイヨーヤハレ
 いきゃしゃる生まれしちがヨー
 親に水汲ましヨーヤレー
 ()しゅて浴める
 ヤシユリャーヨイ
 親に水汲ましヨーヤレー
 居しゆて浴める
 ヤシユリャーヨイ

*53

 二つの曲の印象はきわめて異なることは事実である。しかし,下の句をそっくりくり返す反復形式や,「ヤショヤー」「ヤシュリャー」というハヤシコトバの類似を考えると,かつて一つの歌であったことは疑うことができない。他地域の歌がみんなこう歌われるわけではないが,八月歌「かでくうめなく」とシマウタ「嘉徳なべ加那節」が異名同曲であったということは,結局全てが姉妹歌であったということになる。
 そこで,次に八月歌やウシデークの「煙草」の歌が先か,シマウタ「嘉徳なべ加那節」が先かという問題になるが,八月歌やウシデークの歌が先行していたことはいうまでもない。
 「かでく」「かんでく」から,「嘉徳」を,「うめなべ」「うみなび」から「なべ加那」を連想し,島の人々は「煙草」のことなど全く無視しして,この歌で「嘉徳なべ加那」伝説,ないしうわさを歌ったのである。
 ついでながら,先掲「琉歌百控」の「早嘉手久節」には,「東間切之内東嘉徳村」の歌だと記されており,同書「嘉伝古節」には「竜郷方の別西嘉伝村」とある*54。「早嘉手久節」の「早」は曲調が早めだということで,「嘉伝古節」とは発音の上からも同じ系統の曲であることは疑いをいれない。ここで思い起こすのは,「嘉徳なべ加那」の「嘉徳」は,実は竜郷村の「嘉渡」なのだとする説である。おそらくそれは,「琉歌百控」をひもといたことのある知識人によってもたらせた説だと思う。私も嘉渡で「なべ加那」伝説の有無を聞いたことがあるが,全く伝わっていなかった。
 また,八月歌のなかに,「かどこ」と称して次の歌詞を打ち出しの歌詞としているところがある。

かどこ浜崎に
()ゆる磯葛(いそかずら)
這い先いねだな
(もと)に帰ろ

かどこ浜先に
這っている葛
這い先がなければ
元に帰れ

*55

 これはシマウタ「嘉徳なべ加那節」の3番目によく歌われるものでもあるが,おそらく八月歌との結びつきのほうが古いと思われる。シマウタの方が,嘉徳なべ加那に対する一つの感想として,この歌詞を借用したのだと考えられる。
 以上のように,先行の短詞形歌謡から,新らたなうわさ歌,伝説歌が生まれる例は,他にも割合多いといえる。

西(にし)管鈍(くだどん)なん
(あま)()るぬ掛かて
雨黒るやあらぬ
()かぬめなだ

西の管鈍(地名)に
雨雲が掛かったが
あれは雨雲ではない
私の恋人の涙だ

*56

のような文句が,

大和(やまと)川内(ごち)(おき)なん
(あま)()るぬ掛かて
雨黒るやあらぬ 美代広主(みよひろしゅ)目涙(めなだ)

大和川内の沖に
雨雲が黒く掛かったが
あれは雨雲ではない
美代広主(男性名)の涙だ

*57

と,地名が変わり,「吾かな」という一般名詞が「美代広主」という固有名詞に変わった時点で,新たなるうわさ歌,ないし伝説歌が生まれたといえるのである。

(4)民謡をもとに生まれた伝説
 ここで問題とするのは,元来全くうわさや伝説とは関係ない歌であるにも関わらず,そこに新たなる話を付加するというケースである。先行歌謡があるという意味で,前項と同じではあるが,ここでは新たな歌が生まれるのではなく,新しい話が誕生するだけのものである。

 奄美大島のシマウタに,声ならしの歌とも,あいさつ歌ともいわれる「あさばな節」がある。そこで,次のような歌詞がよく歌われる。

()ちょりよ(はい)ぬ風
大和山川(やまとやまかわ)
吹ちょりよ南ぬ風

吹けよ南風
薩摩の山川港まで
吹けよ南風

*58

 おそらく,本土に旅する人を送る歌詞として歌い始められたものだが,今は関係なく,どんな場ででも歌われる。
 ところが,大和村今里には,この歌の文句について次の伝説があるというのである。

 昔,奄美の砂糖を積みに薩摩から下って来た船は,今里の沖に泊まらせ,船長は中村家の祖先のところに宿をとっていた。そこには五歳くらいの男の子がいて,船長にじゃれついたり,ふざけたりしてなついていた。そこで,その子の祖父は冗談で「こんなにうるさい子は,船長さんに貰っていってほしい」といった。そのころ船長は,ちゅようどわが子をなくして,子供が欲しかったので,「本当に貰っていいか」と聞いた。祖父も軽い気持ちで「構いませんよ」と答えたのだった。果たして翌年,船長はその子をもらうつもりでやってきたが,今更断るわけにも行かず,あげることにしてしてしまった。悲しんだのは,その子を一番可愛がっていた祖母であった。孫の乗った船が出たあと,毎日浜に出て,あだんの木をゆすって泣き,この歌を歌いながら,無事山川港に着くよう祈ったという。*59

 この歌詞自身,奄美大島で広く歌われるわりには,この話は今里に限られ,しかも他所には全くといっていいほど伝わっていない。価値ある話ではあるが,ここでの創作,ないし付会と考えざるをえないのである。
 「かんつめ」については,すでに述べたが,

あかす世や暮れて
汝きゃ夜や明ける
果報(かふ)節ぬあれば
また見きよそ

あの世は暮れて
あなたの夜は明けていく
果報な節がきたら またお会いしましょう

*60

の歌の文句が,かんつめが亡霊になって,恋人の岩太郎に歌いかけたものだという伝説がある。おそらく,これも前からあった歌詞であり,それに後世の人が話をつけたものと推定される。
 かつて,加計呂間島諸鈍の長老が,民俗芸能「諸鈍芝居」のなかの「高き山節」をあげて説明するのを聞いたことがある。

高い山から
谷底見れば
瓜やなすびの 花盛り*61

 全く近世小唄調の歌だが,翁は,これこそ仁徳天皇が丘に登って,民衆の暮らしぶりを見た時の歌だというのである。歴史的に考えて,絶対にあり得ないことだが,伝説発生の問題を考えるにはこれも立派な資料だといえる。
 4つのケースから,民謡とうわさ話と伝説との関連をみてきたが,歌と話は単一的に成立,伝承されていく例は少なく,多くは実に複雑に相互が絡みあって作られていくことが理解できた。

3 昔話のなかの民謡


 昔話の定義をしておく。

(1)語り手,聞き手は,必ずしも「真実」とは思っておらず,「虚構」と認識していること。
(2)登場者は,人間,動物,妖精など。
(3)時代は不定,過去であればよい。
(4)場所も不定。
(5)伝承者は,語りを得意とする爺婆。
(6)話の主題は,主に異常な幸,不幸。
(7)話に叙述形式を有する。

 ここでもいくつかの事例を出して検討していくこととしたい。
 先ずは「正月の歌」にまつわる話である。

 ある所に3人兄弟がいた。正月の朝,親が子供等に歌を作るようにいったところ,長男はこんな歌を歌った。

元日ぬ(しかま)
(とうく)向かってし、見れば
(じる)ゆじる
飾りぎゅらさ

元日の朝
床の間に向かって見れば
裏白とゆずりの
飾りがきれいだ

 次男は,「元日の朝になって,自分たちは若返っていくが,年寄った親は可哀相だ」という意味の歌を歌った。
 最後に三男が,こう歌った。

あったら若正月
那覇下りいもらし
またもいもれよ
正月

もったいない若正月が
那覇から下ってきた
またも来て下さい
お正月

 親は,次男が一番親思いだといって,彼に本家を譲ることにした。長男,三男は思い思いに暮らせといって家から出し,次男にみられることになったそうだ。*62

 全国にある歌詠み比べ話の奄美版といえる。
 どの歌も,徳之島のシマウタで歌われるものに違いなく,次男の歌は,この採集では意味だけになっているが,おそらく徳之島の「正月歌」で歌われる次の歌詞がそれに当たるものだろう。

若正月とれば ()きゃや(わか)げりゅり
年寄りゅろ(うや)
事ど思んで

若正月をとれば
私たちは若返るが
年を取っていく親の
ことが思われる

*63

 また,三男の歌は,4句目が字足らずになっているが,

あったら正月や
那覇くだいしめて
また来ゆん正月
()(うえ)せら

もったいない正月が
那覇から下ってきて
また来る正月を
迎えて差し上げましょう

*64

といった歌詞が元になっていると思われる。
 いずれにせよ,これらの歌の文句は,決してこの昔話とともに生まれたのではない。昔話が,徳之島の正月歌を取り込んだのである。
 この昔話が語られた場をも想像することができる。正月の朝,一家が集まって三献(三つの吸い物と酒をいただいて祝う儀礼)をする時,一家の主人が,子供等に向かってこの昔話を聞かせたのではないだろうか。この3つの歌に序列をつけることに対しては,異議ある人も当然出てこようが,徳之島は「神拝むより親拝め」といわれる土地柄である。親思いの歌が一番になったのには,それ相応の理由はあったのである。
 兄弟が歌比べをした話に対して,ヤンチュ(家人)といわれる農家の奉公人が,主人の前で歌を歌うという話がある。これも二人の男が歌って,一方が一生食べていけるくらいの財産をもらい,片方が終生ヤンチュで終わるのである*65
 この話型を持つ昔話や伝説が全国に広くあることは周知のことである。しかし奄美はとりわけ歌遊びや八月踊りなどで歌競争が近年まで濃厚に残っていたところであり,かかる話が支持される基盤は十分にあったと考えられる。
 次に,これは奄美だけでなく沖縄にまで広がって伝えられている「浜千鳥」の歌にまつわる昔話をあげてみる。

<事例1>

 千鳥がいつも上がったり下がったりしているので,人が「君は親が欲しくて,上がろうにも上がれず,下がろうにも下がれず,鳴いているのか」と聞いた。すると,「私は親がいないので,毎日浜に降りて鳴いている」と答えた。するとまた,人は「今からは自分と親戚になろう。君も親を欲しがらず,私も親を欲しがらないから,二人親戚になろう」といったそうだ。*66

 この話には歌詞は出てこないが,

親離(うやはが)(どうり)ぐゎ
()しゃち鳴きゅり
(わぬ)も親離れ
親欲しゃち泣きゅり

親に離れた鳥が
親が欲しいと鳴いている
私も親と離れた身
親が欲しくて泣いている

*67

(わぬ)やこのしまに
(うや)はるじをらぬ
(わん)(かな)さしゅん(ちゅ)

私はこのシマ(里)に
親親戚はいない
私を可愛がってくれる人が
私の親親戚だ

*68

という文句の説明であることは確かなことである。

<事例2>

 投げ網を打つ男が,ある日カマウタサバ(鱶の一種)を捕まえる。男は,それと一緒になり,やがて子供まで生まれる。幸せに暮らしていたが,ある時,カマウタサバは「海に帰らなければならないと」いい,男が止めるのも聞かず,子供を連れて海に帰ってしまう。男もその後を追って,海で死んでしまう。そして彼の霊は浜千鳥となって,浜辺をさ迷うのであった。

泣くなちぱ泣きゆる
ゆる浜ぬ千鳥
あれや我がくぅとぅい
あてぃどぅ泣きゅり

泣くなといえば,なお声まさって泣く
夜浜の千鳥よ
あれは我がことが
あってそれで泣くのだ

*69

と,歌うのはそういうわけである。

<事例3>

 ある所に母と男の子が暮らしていたが,ある時,男の子が海からきれいな赤い魚を取ってきた。母は,こんなきれいな魚を食べるわけにはいかないといって飼っていた。母は機を織っていたが,その布が誰か他の人に織られているような感じがしてならなかった。それで,畑に行くふりをして隠れて見ていたら,魚が娘に姿を変え,機を織るのであった。  問い正すと,自分を殺さずに飼ってくれたお礼だという。それで,母はその娘と息子を夫婦にさせる。ところがある日,息子が妻に粟をついて昼ご飯を作って持ってきてくれと,いったところが,妻はよくふるいにかけることを知らなかったので,カサカサして旨くない飯を作って持っていってしまう。夫は怒って,お前は海に帰れといって帰してしまった。そして,男が家に帰ったところ,家には何もなくなっていた。男は妻を帰したことを後悔して,浜伝いをさ迷い,泣き暮らすうちに浜千鳥になってしまう。その時,妻は沖の干瀬に上って,次の歌を歌った。

たんでぃ浜千鳥
朝ま夕ま位くな
泣けば面影い
まざてい立ちゅい

ごめんよ,浜千鳥
朝も夕も泣きなさんな
泣けば面影が
勝って立つから

*70

<事例4>

 ある所に老夫婦が住んでいたが,ある日,夫がきれいなクサビを−匹釣ってきた。それを壷に入れて飼うことにする。ところが,夫婦が昼間,畑に行っている間に見事な綿布が織られている。それがたびたび続くので,二人は押し入れに隠れて見張っていると,壷のなかからクサビが出て,女になって織りだすのであった。夫は押し入れから飛び出して,女を縄で縛りつけた。すると,もとのクサビになって海に帰っていく。夫はそのクサビを探しに海に入り溺死してしまう。妻は夫の死を悔やんで浜に行き,浜千鳥が鳴くのを聞いて,浜千鳥よ朝夕鳴いたら面影が一層増してくると,声を掛けて泣くのであった。*71

このなかの声を掛けたという文句は,事例3の歌詞に当たるであろう。

<事例5>

 ある所に夫を失い,子供4人を育てる母親がいた。長男は船乗りになっていたが,下の子3人は母と一緒に暮らしていた。ある時,母親が一生懸命布を織り,やがて織り切ろうとしていた時,一番末の子が機の側に来て邪魔をした。それで子供等に,海に大きな船が来ているから,そこに行って遊びなさい,という。子供等はいわれた通り海に行き,小さな船から大きな船に乗ろうとしていたが,台風がきて外海に流されてしまい,3人とも海にたたき込まれて死んでしまう。母は,子供等が帰らないのを悲しんで,泣きながら浜に降りていくと,浜千鳥が3羽,彼女を追いかけてきた。これはきっと我が子らの魂だろうといって,捕もうとしたが捕まえられなかった。そこで,織りあげた布を鋏で切って,「お前たちのために遊んで来いといったのだ」と後悔の言葉を口にしながら,次々布を鋏で切って飛ばし,布がなくなるまで,浜伝いを泣きながら千鳥を追った。

千鳥浜千鳥
朝ま夕ま鳴くな
鳴きば面影(うむかげ)
まさていたちゅい

千鳥浜千鳥よ
朝も夕も鳴くな
鳴けば面影が
勝って立つことだ

*72

という歌を歌い,母もそこで命を絶った。

 どの話の歌の文句も,今なお奄美のシマウタや八月歌として愛唱されているものである。  昔話としては,事例1が人と千鳥の問答,2,3,4が異類婚姻譚,そして4がわが子を失う母の話である。
 1は歌詞説明型といってもよく,島の人々はこんな形で歌の文句を説明することがあったのだと知れる。また,歌遊びで歌掛けをする時に,感情移入をするために作られた話かもしれない。
 2,3,4の異類婚姻譚は,奄美の昔話に深く入り込んだものである。1のような形で千鳥の歌が説明されるうちに,この話と結びつくことはきわめて自然といえる。
 5のように機織りを邪魔する子供を浜に追いやって,後悔する母の話は,徳之島の歌「しきしま口説」がそうであり,また昔は日常的にもよくあったことだと思う。
 ただ,私の推量では,南島の千鳥の歌は元来,異類婚姻誼と深く結びついていたと思われる。
 それを傍証するものとして,沖縄には有名な雑踊りの歌「浜千鳥節」の由来を説明する「熊女房」の話がある。

 ある男が暴風にあい,船が沈んで無人島に打ち上げられる。その時,雌熊が現れて,熊の皮や木の実をとってきて寒さを凌いでくれるので,男と雌熊は夫婦となる。やがて男の子が生まれる。それから3,4年後,男は,女房が山に行っているすきに,子供を連れ,通りがかりの貨物船に乗って沖縄に帰って来る。子供は,手は人間だったが,体は毛がはえて熊のようだったので,父にそのわけを尋ねる。父はそれに答え,父子は母熊のいる島に渡る。しかし,その時母はアダンの葉にすがって死んでいた。子供はその熊の皮と口を持ち帰り,まつりをした。「浜千鳥節」はその時生まれたものである。*73

 一般に歌われる「浜千鳥節」の歌詞とハヤシコトバは次のようなものである。

旅や浜やどうい
草ぬヤレ(ふあ)ぬ枕
()てぃん(わし)ららん
()()ぬヤレ(うや)御側(うすば)
千鳥ヤヤ浜ウティチュイチュイナ

旅の浜宿りをして
草の葉を枕に寝る
寝ても忘れられないのが
我が親の側にいたときのこと
千鳥が浜に降りて チュイチュと鳴く

*74

 この話では,歌のどの部分と,どう結びつくのかは不詳だが,母の死の悲しみと千鳥の悲しい鳴き声と重ねたものであることは間違いない。
 いずれにせよ,島の人々の身近にいる魚とは違って,「熊」という山の中の,しかも沖縄にはいない動物を女房にする話にも「浜千鳥」の歌が出てくるのは,よほどこの歌と異類婚姻譚との結びつきが固い証拠といえよう。むろん,こんな話が,どんな経過で生まれたのかは今後の問題にしなければならない。
 以上の一連の話と歌の関連を一口でいうなら,南島の「歌物語」だということである。日本の古典文学「伊勢物語」「大和物語」等々における物語と短歌との関係とほとんど変わらない世界が,そこにはみられるといってよい。
 奄美の歌物語という点で,このほかにも「炭焼き五郎の話」や「絵姿女房」系の話と歌が結びついたものがあるが,すでに論じたことがあるので本稿では割愛する。  最後に,何時の時代か,本土から奄美に入った昔話がいくつか複合して,それが伝説化し,歌が結びついたというケースをみてみる。

 徳之島の尾母に住む男が,馬根の女に思いを寄せて通った。しかし,女は「あなたが千夜通ったら一緒になろう」という。男はそれを真に受けて,三年と三カ月通ったが,いよいよ最後の夜になったが,女は一緒になりたくなかった。そこで彼女は,馬根と尾母の間のサビチ川に掛かっている橋を真ん中から切っておいた。男は,それとは知らずに橋を渡って落ちてしまった。男は濡れたまま女のところに行き,こう歌う。

(かな)さうち()れて
さびち()や渡て
降らぬ夏雨(なちぐり)
濡れる辛気(しゅき)

愛するお前に惚れて
サビチ川を渡って
降りもしない夏雨に
濡れてしまったのが辛い

すると,女はこう返した。

降らぬ夏雨に
たんが濡れてちゃんが
しま(ぎも)ぬあてど
濡れたはんぎじゃが

降りもない夏雨に
どうして濡れて来たのか
しま肝(邪まな心のことか)があって
それで濡れたはずです

また男は返す。

しま肝やねだて
よこ肝やねだて
しぎ<深雨に
濡れたん

悪い心もなくて
邪まな心もなくて
ひどく深い雨に
濡れてしまった

また女の返し。

しぎくやんたれて
降ゆる雨加那志
むじよい上なれぱ
露に()りれ

(意味不詳)
降る雨の神様
恋人の上に降るならば
露になって降りて下さい

また男の返し。

露だまし降りて
花ぬ宿(やど)とゆし、
あまこ宿御宿(みやど)
とらち給れ

露でさえ地上に降り
花の宿をとる
あの宿この御宿を
どうかとらせて下さい

 こんなやりとりがあり,ついに男は女を突き倒し,鋏を取り出して女の髪の毛を切り,それを手拭いに巻いて帰った。その後,男は轟の分限者の娘と一緒になった。  それから二,三年して,馬根の女は落ちぶれて物貰いになった。そして男の所にもやって来たが,男のことを覚えていないのである。男は哀れに思い,籾を二,三升ばかり与える。また,何か月後かに来たので,妻の着物と籾一斗ほどを,寒いときはこれで凌げといって持たせた。だが女は寒い日に,着物を確かめずに燃やしてしまう。再び来た時,男は,かつて切り取った髪を包んだ手拭いを女に渡し,家に帰ってから見なさいといった。女は門口でそれを見て,ことの全てを知って息を引き取ってしまった。男は妻にもいうことができずに女を俵につめて家の軒下に埋葬した。やがて,そこから葉の大きな草が生えてきて,妻はあれは何かとたずねる。先ず煮て食べてみるが苦くて食べられない。それで焼いてみると香りがとてもよいので,竹筒を持ってきてそれで吸ってみた。女の縁が付いた煙草という意味で「縁付け煙草」というのである。*75

 これは,「千夜通い」の話と,「炭焼き五郎」系の話と「煙草由来」の話が混合したものである。歌は,もともとはこの話に関係なく,一般的な掛け歌として歌われていたものに違いない。それが,この話と融合して見事な歌物語が成立したと思われる。ここでの歌の役割を考えると,昔話を伝説化するのに大きな力となったとはいえないだろうか。

まとめ


 奄美における民謡と神話,伝説,うわさ話,昔話との繋がりを3章にわたってみてきた。今更ながら,民謡と民間説話とが島の生活の中に,いかに重要な位置を占めているかを思い知ることとなったが,この方面の研究は,ユタやノロが伝える長詞形の叙事詩,いわゆる神歌研究に比べると今始まったばかりの分野だといえる。その資料は,ある意味では断片的なものが多く,このままだと忘れ去られてしまうということも事実である。
 近年は特に酒井正子氏の精力的な研究があって*76奄美のうわさ歌の研究は進んだが神話や昔話と民謡の研究はまだこれからである。本稿がいくぶんその方面の研究の緒となれば幸いである。

(執筆者は本研究所所長)

[註]※詞章が2首以上引用の場合,最後のものに註を付す。
著書の後の()のなかは,発行元,刊行年の順


*1 南島の職能的宗教者として,主に集落の祭祀を司るノロ(よく祝女と当て字される)と,神がかりをして託宣.占い,厄よけなどを行うユタがいるが,神ごとを行うという意味で「カンミンチュ」といわれる。
*2 山下欣一箸「奄美説話の研究」(法政大学出版局/1979),同「南島説話生成の研究」(第一書房/1998),藤井頁和著「「おもいまつがね」は歌う歌か」(新典社/1990)等
*3 小野重朗著「南島歌謡」(日本放送出版協会/1977),同「南島の古歌謡」(ジャパン・パプリッシヤー1977),古橋信孝著「古代歌謡論」(冬樹社/1982),谷川健一箸「南島文学発生論」(思潮社1991),福田晃署「南島説話の研究」(法政大学出版局/1992),外聞守善著「南島文学論」(角川書店/1995)等
*4 「民謡」をどう規定するかについてはいろいろな考え方ができるが,狭義にとらえると職能的芸能者や宗教者の歌は除外され,いわば,短い歌詞のやり取りが歌の中心になるといえよう。
*5 拙著「奄美民謡誌」(法政大学出版局/1979)の「徳之島のきゅうだら節をめぐって」の項,拙論「南島歌謡と説話」(福田晃ほか縞「南島説話の伝承」三弥井書房/1982所収入拙請「奄美の物語歌」(早稲田演劇学会編く演劇學>25/1984所収).拙著「民謡の島の生活誌」(PHP研究所/1984)等
*6 関敬吾著「民話」(岩波書店/1955),古田敦彦・松村一男箸「神話学とは何か」(有斐閤/1987),福田晃編「民間説話」(世界思想社/1989)の「総説・民間説話」の章等による。
*7 山下欣一が註2の著書などで提示。
*8 奄美大島,徳之島のノロが伝える「おもいまつがね」,沖永良部のノロがかつて伝えたとされる「島建てしんご」等。註2,3の書籍参照
*9 恵原義盛箸「奄美の島歌歌詞集」(海風社/1988),267〜9頁。歌詞原文はひらがであるため漢字を当てた。発音表記は原文通りだが,中舌音に付された「。」印は省略した。右の訳文は小川。この著書からの引用は以下も同じ。
*10 登山修編著「南島昔話叢書1/瀬戸内町の昔話」(同胞社/1993)の「ネゴホの神と稲魂」(伝承地=古仁屋)7〜8頁,小川要約(以下話の部分は全てについて同じ)
*11 「沖縄大百科事典中巻」(沖縄タイムス社/1983)「てるこ・なるこ」の項等参照。
*12 「瀬戸内町誌(民俗編)」(瀬戸内町/1977)等参照。
*13 岩倉市郎箸「おきえらぶの昔話」(古今轡房/1955)の「島建国運」の項,「日本伝説大系第15巻/南島」(みずうみ書房/1989)に同話再録。同書58〜7頁,伝承地=和泊町出花
*14 長田須磨・須山名保子共編「奄美方言分類辞典上巻」(笠間書院/1977)「ミキャモドリ」の項。(伝承地=奄美大島・大和村大和浜)487頁
*15 「南島歌謡大成V奄美篇」(角川書店/1979)所収の「縁ぬナガレの戻しウタ」(96頁)「にぎグチ」(97頁)等
*16 恵原義盛「奄美の創世伝説など」(<月刊青い海>1976.8/青い海出版社)110頁
*17 文英吉「奄美民謡大観(改訂増補版」(自家版/1966)の「あがれ日ぬ春加那節」の項。241頁
*18 昇曙夢著「大奄美史」(奄美社/1949),復刻版(奄美社/1968)107頁,歌詞原文,訳文小川
*19 小川採集 伝承地=瀬戸内町諸鈍
*20 文潮光著「奄美大島民謡大観」(南島文化研究社/1933),復刻版(自家版/1983)416頁,歌詞原文は漢字混じりひらがなで,勧音を特殊表記している。発音表記はそのままに当て字,改行,勤音表記を一部部変更して引用,訳文小川,本著書からの引用に当たっては以下同じ。なお著者の「潮光」は筆名で,本名「英吉」
*21 註9の著,263頁
*22 註21に同じ
*23 註23は無し
*24 註9の著。262頁。
*25 註20の著書,220頁。
*26 小川採集,伝承地=笠利町佐仁
*27 小川採集,伝承地=徳之島町亀津
*28 小川採集,伝承地=瀬戸内町諸数
*29 小川採集,伝承地=宇検村湯湾
*30 小川採集,伝承地=徳之島町井之川
*31 小川採集,伝承地=(前)宇検村湯湾,(後)瀬戸内町諸数
*32 註20の著書,204〜5頁。
*33 註20の著書,166〜7頁。
*34 註20の著書,168〜75頁。
*35 註18の著書.354頁。
*36 拙論「奄美における仕事歌起源のシマウタ」(「南日本文化研究所叢書18号」鹿児島短期大学付属南日本文化研究所/1993/所収論文)参照
*37 拙著「奄美の島歌」(根元書房/1981)
*38 小川採集,伝承地=笠利町佐仁
*39 小川採集,伝承地=瀬戸内町諸数
*40 註20の著書,183〜4頁
*41 坂井友直「喜界島史」(発行所不詳/1933)「奄美郷土史選集第1巻」(国土刊行会/1992)に再録,同書「ムタカナ節の由来」の項,314〜5頁
*42 仲宗根幸市箸「しまうた百話」(沖縄公論社1983)の「むちや加那節(浦富節)」の項,237頁,同「「しまうた」の流れ」(ボーダーインク/1995)69頁等参照
*43 久保は書名をあげていないが,「喜界島古今物語」(自家版/1965)と思われる。
*44 「日本庶民資料集成第19巻/南島古揺」(三一香房/1971)「奄美諸島/三味歌」の部,93頁歌詞,訳文とも原文のまま
*45 註20の著書,227〜8頁。
*46 金久正著「奄美に生きる日本古代文化」(刀江谷院/1963)参照
*47 小川採集,伝承地=笠利町用
*48 小川採集,伝承地=徳之島井之川
*49 文書「安政六年巳未大和踊言葉香帳」,本田安次箸「奄美の旅」(民俗藝能の会/1964)所収
*50 「南島歌謡大成恐縄篇下巻」(角川書店/1980)399頁安名
*51 註50の著書,391頁
*52 註44の著書,369頁。
*53 小川採集.伝承地=八月歌は笠利町用,シマウタは笠利町佐仁。
*54 註44の著書,358頁。
*55 註15の著書,「八月踊り歌」の部,333頁,伝承地=瀬戸内町久慈
*56 註23の著書,「雨ぐれ節」の項,177頁。
*57 註9の著書,「あまぐるみ(雨黒み節)」の項,194頁。
*58 小川採集,伝承地=笠利町佐仁
*59 小川採集,伝承地=大和村今里
*60 註23の著書,173頁。
*61 小川採集,伝承地=瀬戸内町諸鈍
*62 田畑英勝著『徳之島の昔話」(自家版1972)「正月の歌」の項,114頁.以下,昔話の引用に当たっては,話の部分要約,歌詞は改行以外は原文のまま,訳文小川,昔話の引用に当たっては以下同じ
*63 註44の著香,久保けんお報告,61頁,伝承地=徳之島
*64 註64に同じ
*65 田畑英勝著「全国昔話資料集成15/奄美大島昔話集」(岩崎美術社/1975)「やんちゅの歌」の項,153〜4頁
*66 註10の著書「千鳥浜」の項,259〜60頁,伝承地=瀬戸内町嘉入
*67 恵原義盛著「奄美の島歌/定型琉歌集」(海風社/1987)107頁
*68 註67の著替,409頁
*69 註65の著書「浜千鳥」の項,236〜7頁,伝承地=喜界町赤連
*70 田畑英勝箸「奄美諸島の昔話」(日本放送出版協会1974)「魚女房」の項,27〜8頁
*71 町田原長箸「与論島民話集」(自家版/1979)「浜千鳥に泣いたパパ」の項,7頁,伝承地=与論町
*72 註70の著書「浜千鳥」の項,251〜3頁
*73 大城純子・西大桝五校稿本,「日本昔話通観26沖縄」(同朋舎出版1970)に「熊女房」の類話5として要約掲載,319頁,伝承地=勝連町津堅
*74 「日本民謡大観(沖縄奄美)沖縄諸島篇」(日本放送出版協会/1991)566頁,伝承地=沖縄本島,詞章原文はひらがな(歌詞)とカタカナ(ハヤシコトバ)だが,漢字を当てて引用,訳文小川
*75 小川採集,伝承地=徳之島町徳和瀬,「南日本文化研究所叢轡2l徳之島採集手帖」(鹿児島短期大学付属南日本文化研究所/1996)に掲載,「縁付け煙草の話(その2)」の項,30〜32頁
*76 酒井正子箸「奄美歌掛けのデイアローグ」(第一替房/1996)等参照。
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