沖縄文化研究 第七号
昭和五十五年六月三十日発行 抜刷

「琉歌百控』と奄美の現行歌謡

小川学夫

「琉歌百控」と奄美の現行歌謡

小川学夫

 はじめに

 昭和四十六年に三一書一房から発行された『日本庶民生活史料集成第十九巻南島古謡』収載の『琉 歌百控』とその解説(仲程昌徳)によると、『琉歌百控』は「乾柔節流」「独節流」「覧節流」の三部からなる唄本で、夫を文運盛んだった尚温時代に当る一七九五年(寛政七)、一七九八年(寛政一〇)、一八〇二年(享和二)に編纂されたものだという。
 各流の構成をさらに細かにみてみると、いずれも二〇段に分けられ、各段五節(曲)ないし六節の名 があげられており、一節に二つずつの歌詞が割りあてられている。
 今日伝えられているこの唄本には、書写過程での欠落などもあるようであるが、我々がうかがい知れるのは、乾柔節流における九六の節名と一九四首の歌詞独節流における一〇〇の節名と二〇三首の歌洞覧節流における一〇一の節名と二〇五首の歌詞である。
 ところで各流の関連を見て染ると、歌詞の重複はないが、節名には多く同じものがでてくる。それ も「作田節」「散山節」などのように当字もそのままに三流にあらわれるものもあるし、明らかに同曲とみられながら「諸鈍節」(乾、以下各流を』あように略す)「志由殿節」(独)、「諸殿節」(覧)のように何故か当字をかえて現われるものも少なからずある。なお各流の歌詞の傾向を見てみると「乾柔節流」の中に最も、その節名を説明するような、いわば元歌に近いものが収載されていることも確かであるといえよう。
 今一つ重要なことは、「乾柔節流」の多くの節に、例えば「中作田節中城間切伊集村」のごとく、 その唄の出自と承なされていた地名が記されているということである。これは以下二流には全く出てこないが、少なくとも「乾柔節流」の編まれた一七九五年代までは、夫々の唄がその地方でうたわれていたことが確認されるだけでも、大変貴重なことといわなければならない。
 この唄本には編者はじめ、各流の名称の意味など、多くの疑問点が残されているという。本稿の目的とするところは、それらの解明ではなく、この『琉歌百控』に記載されている唄が、現在の奄美各地域で、実際にどのような形でうたわれているかを観察することにある。そうすることによって、奄美歌謡の変遷の姿もある程度明らかになろうし、また沖縄で、今日古典音楽といわれるものの成立過程もいくらか垣間見られるのではないかと思うものである。
 以下、奄美の地名が明記されているものと、地名の記載はないが、奄美の現行歌謡と何らかの点で 関連ありと認められる唄とに分け、順次みていくことにしよう。

一 奄美の地名が記されている唄

(1)「嘉伝古節」(乾・独・覚)、「早嘉手久節」(乾)

 「嘉手古節」(乾)には「竜郷方の別西嘉伝村」(現在竜郷町嘉渡)とあり、また「早嘉手久節」には 「東間切之内東嘉徳村」(現瀬戸内町嘉徳)とある。「嘉手古」「嘉手久」と「古」「久」の違いがあり、かつ「早」がつくつかないはあるが、系統的には同じ流れを汲む唄といって間違いないであろう。
 収蔵歌詞として貴重と思われるのは「早嘉手久節」の、

 ○嘉手久思鍋かこと付の多葉粉
 又もこと付の藻列煙草

と、「嘉手久節」(覧)の、

 ○嘉礼吉の遊ひ打ち晴てからや
  夜の明て日の昇る迄も *1

である。前者は「嘉手久節」では最も元歌に近いと推定される歌詞で、奄美でもこの系統の歌詞が今 も残っている(後述)。また後者は沖縄のカチャーシ曲として今も盛んな「カデク節」によくうたわれるもののようである。
 さて奄美でこの系統の唄として先ずあげられるのは、大島本島の八月踊り唄で「かどこ」「かでく」 「うめなぺ」などといわれている唄である。例えば次のようにうたわれる。

 〈笠利町用での採集例「かでくうめなべ」〉*2

  かでくうめなぺや ことちけぬ煙草(たばこ)
  ハレまたもことちけや もちれ煙草ヤショャー
  ハレまたもことちけや もちれ煙草ヤショャー
  ※歌詞部分を漢字混り平仮名、ハヤシ詞を片仮名で記し、
   以下同様の表記法をとる。

「ヤショャー」というハャシ言葉が伴い、かつ下句がそっくり反復していることに気付かれよう。 大方の地域のうたい方がこのように固っているが、歌詞の上では、いきなり「よがなべや〜」ではじまったり「かどこうめにゃぺや〜」ではじまったり一様ではない。なお元歌につづいて「煙草」をうたった文句がうたわれる傾向にあることは確かのようである。前掲「早嘉伝久節」の二首目も、

 ○七葉あし多葉粉髪ら組しちゆて
  里と原隣ひ行逢はたひもの

と煙草をうたっていることは偶然ではないであろう。
 ついでながら徳之島で八月踊りと同系列にある七月踊りあるいは夏目踊りの現の中にある「なんご ちゆがなぺ」も、これらと無縁の存在ではない。

〈徳之島町井之川での採集例〉*3

  なんごちゆがなぴや ことちけぬたばこ
  ハレむらちりあし
 (下句欠落、全く別の歌詞を次に継いでいく)

 ここでは大島本島の八月踊りのように歌詞反復も「ヤショャー」というハヤシ言葉もないが、この 特殊な歌詞が偶然付いたものではないであろう。
ところで、この八月踊りの唄から三味唄に成長したと推定される唄屯ある。大島本島で広くうたわ れている「嘉穂なぺ加那節」である。

〈笠利町砦での採齢}*4

 嘉徳なぺ加那やイョーヤハレ
 如何(いきゃ)しやる()れしちがヨー
 (うや)に水()ましヨーヤレイ
 居しゅて()めるヤシュリャーヨイ
 親に水汲ましヨーヤレイ
 居しゅて浴めるヤシュリャーヨイ
  ※上・下句の間に歌掛けの際の相手方ハヤシが入るが省略した。

 下句がそっくり繰り返してうたわれること「ヤシュリャー」とハヤシ言葉が入る点など詞章上の歌 唱形式においては、ほとんど八月踊りの「かでくうめなぺ」と同じであることに気付かれるであろう。
 ついでながらこの三味唄「嘉徳なぺ加那節」の鶏徳は、瀬戸内町嘉穂だというのが通説で、そこに は現にこの唄の主人公にまつわる口碑もあるが、今一つ、竜郷町の嘉渡説もいわれていることは大変興味あることである。こちらの方は実際に嘉渡の古老たちに聞いてみると全くそのような話は聞いたことはないというが、ともかく、『琉歌百控』の「カデク節」が一方は「嘉伝村」一方は「嘉徳村」と記されたそのことと無関係ではないと思う。

(2)「諸鈍節」(乾)、「志由殿節」(独)、「諸般節」(覧)

 いろいろな文字で記されているが、この「諸鈍」は現在瀬戸内町内にある加計呂麻島諸鈍部落を指 していることは確かである。
 「諸鈍節」(乾)には「東間切之内潮殿村」と記され、

 ○しゅとん宮童の雪色の齦
  いつが夜の幕て御口吸わな

 ○しゅとん長浜に打い引波や
  しゅとん宮童の目笑齦

の二首があげられている。
 この唄に該当する奄美の現行民謡をあげるとすれば「諸鈍長浜節」以外には見当らない。この唄は 三味唄としては大島本島、喜界、徳之島、沖永良部島に流布し、また八月唄としても大島、徳之島でかなり盛んにうたわれるものである。二、三そのうたわれ方を例示しよう。

 〈宇検村湯湾での三味唄としての採集例〉*5

 ハレイ諸鈍長浜に 打ちゃげるハレ白波や ヒヤルガヘー
 アレ諸鈍女童ぬ 笑い歯ぐき ヒヤルガヘー

 〈徳之島町弁之川で一一深唄としてうたわれる例〉*6

 ニーイ諸鈍長浜(しゅどぬながはま) 大和(やまと)がで流行(はや)て ヒヤルガフェー
   アレー諸鈍女童(めれん)きゃや 島々に流行て ウセヒヤルガフェー

 〈宇検村芦検での八月唄としての採集例〉*7

  諸鈍ぬ長浜ぬ 如何(いきゃ)長さやあてぃも ヒヤルガヘー
  池地(いけじ)長浜ぬ (ううゐ)やきゃぬ ヨノヒヤルガヘー

 いずれも「ヒヤルガヘー」というハヤシ言葉が付いていることに注意すぺきである。
 ちなみに沖縄の現行古典音楽をふると、「諸屯節」と「しゅうどん節」が関連あるようである。特 に後者は「醜童節」と当字されながら『琉歌百控』における「諸鈍節」(乾)の歌詞とほとんど同じ歌詞がうたわれることは、ただの偶然とは考えにくい。ただ沖縄の「諸屯節」では「サトヌショー」というハヤシ言葉が伴い、「ヒヤルガヘー」はでてこないところが一つの問題ではある。

(3)満開節(乾)、満恋節(乾・独)

 前「満開節」には「大嶋時花之事」、後「満恋節」(乾)には、ただ「大嶋」とだけ記されている。 この二つはもともと同系統の唄で、現在、大島本島、徳之島でよくうたわれる三味唄「マンコイ節」に関連するものと想像される。
 歌詞としては「乾柔節流」の二節に記されているものが重要で、「満開節」には、

 ○夏の夜も夜さめ冬の夜も夜さめ
  満開主の夜と本の夜さめ

 ○大嶋七間切鬼界五間切
  徳永良部与論那覇の地の内

とある。一首目の満開主が問題で、ここでは人名のようになっているが、次にあげる文句のように、 「まんこいする夜(招き愛しあう夜)」がこのような形で記されることになったのではないだろうか。私は奄美において「満開主」という人物がいたことも、こうして唄にうたわれているということも、その話は一度も聞いたことばない。
 なお二首目の方は「マンコイ節」に限らず、奄美ではどの唄にもよくうたわれる歌詞の一つである。ついで「満恋節」に記されているものは、

 ○恋し思里と満恋しゆる夜や
  冬の夜の二長あらち絵れ

 ○旅や浜やとり草枕らこゝろら
  寝も忘らぬ秘蔵か御側

である。この一首目こそ、その類歌がよく大島の三味唄「うんにゃだる節」でうたわれるものであり、しかもこの「うんにゃだる節」はかつて「マンコイ節」とどこかでつながっていたと考えられる唄なのである(後述)。
 二首目は奄美でも沖縄でもよく知られた歌詞の類歌であることは今更いうまでもないだろう。さて奄美の「マンコイ節」のうたわれ方をあげておくと次のようである。

〈宇検村湯湾での採集例〉*8

 うらきゃしゃあてどヨーマンコイ
 恋いやり(スラスラ)いやりしちゃる
 マンコーイ トートマンコーイー
 (トジャマヌドッコイ)
 (きも)ちゃげぬ加那やヨーマンコイ
 吾目(わーめ)や(スラスラ)マタ目やめらぬ
 マンコーイ トートマンコーイー
 ※( )内は歌掛けの際の相手方のハヤシ

現在どの地域でもこの唄の元歌ないし打ち出し歌ははっきりと定まっていないことが多く、「マソ コイ」という曲名の由来も、たたくヤシ言葉として出てくるからというにすぎないようである。ところで先に書いた「うんにゃたる節」であるが、これは、

 〈笠利町佐仁での採集例〉*9
  うんにやだるとかぜらん主とコレまんこいしゅる夜や
  エーイ冬ぬ()ぬ(ヤッサヌヨイヨイー)二長(にな)げあらち給れ
  ニーイ冬ぬ夜ぬ(ヤッサヌヨイヨイー)二長げあらち絵れ

とうたわれるのである。その歌詞も重要ではあるが、詞章の歌唱法上、句の途中(マンコイ節」では二句 目と四句目、「うんにゃだる節」では三句目)に相手方のハヤシが入ることが、私には両曲が縁もゆかりも ない別曲だとは思えない理由なのである。

(4)赤木名節(乾)、赤慶名節(独)

 「赤木名節」には「笠利間切之内赤木名村」とある。「赤慶名節」と同じだという証明はないが、そ の発音からおそらく一つと思われる。
「赤木名節」としてあげられている歌詞は、

 ○赤木名鳥小か早たいは諷てと
  夜深に諷てと無蔵や戻る

 ○壱の鳥庭鳥かひもてられ庭鳥
  夜深に諷て予無蔵や戻ちゃる

の二首である。
 今のところ、奄美ではこれと同じ歌詞も、また同じ曲名の唄も見いだし得てはいないが、笠利近辺 で現在は別の曲名を持った何かを指しているのだろう。
 なお歌詞の一首目だが「赤木名鳥小」というのは、「明時(はーとき)の鳥」というのがこうなったものに違い ない。こういう一般名詞が固有名詞に変化するケースは、民謡においてはま主あることだからである。

(5)池当節(乾・覧)

 乾柔節流には「沖永良部嶋」とあり、覧節流には「八月節」と付け加えられている。最も重要な歌詞は乾柔節流の二首目、

 ○永良部思なやに送ん酌されて
  赤さ親泊日や昼間

である。現在「いきんとう節」は沖永良部、与論を通じて最もよくうたわれる唄といってよい。打ち 出しの歌詞は決まっていないようである。所によって「いきゃ節」(短い節の意)「なーづるがい」(三味線の中絃がよく響く唄の意)などともいわれ、また特に与論では「昔いきんと」「上げいきんと」「下げいきんと」などとバリエーションがある。
 うたわれ方を例示すると、

 〈和泊町国頭の採例〉*10

 オシィー(うや)()御陰(うかぎ)
(サースーリウーリー)
 丈程(たきふど)(ふで)
 親ぬ生し事はィ
(サースーリウーリ)
 粗相(しそ)()むんなスリー

となる。「オシィー」ではじまるのが一つの特徴といえよう。

(6)浮島節(乾・独)

 乾柔節流には「沖永良部嶋」と記され、次の二首がある。

 ○狐も見事な永良部の鴫や
  地から離て浮嶋小

 ○長緒きせる仁多葉粉は詰て
  宿にとつくかいつ侍きやう

 共に七七七五の近世小唄調歌詞で、特に二首目は本土渡来のものが多少誰ったものであることが知れるであろう。
 現在、沖永良部には「浮島節」といわれる唄は残っていないが、この島にも「五尺手拭」「口説」 など本土系歌謡が入っていることは確かであり、その一つの流れと思われる。一首目などは島中の部落の特徴を次々うたっていく「全島口説」とつながるものであり注目される。
 なお詩形的に、独節流にあっては、

 ○波風や荒て通らわん可さ
  波替そなよ真艫取す

のごとく全く八八八六調になっている。一ヤマト(本土)唄も、沖縄ではこの時点においては全く土地の唄として吸収されていたという証拠であろう。

(7)久高節、代朱節(乾)

 「代朱節」というのは「久高節」の別名という形で書き添えられており、なお「大嶋」と記されて いる。歌詞は、

 ○久高思里や与論旅かいたう
  いちやし思暮ち三年侍か

 ○久高思さとや乗んしやる舟や
  伊集の木とやすか紺染そめて

の二首であるが、現在大島本島ではこの節名や参」の系統の歌詞を持つ唄は知られていない。ただ沖永良部島には「久高まんじゅ主」といわれる唄が踊り唄の一つとして残っており、おそらくそれと関連、するものと思う。そこでは次のようにうたわれる。

 〈和泊町国頭での採集例「奴踊り」の一つとして〉*11

 久高まんじょ主や (ちゅ)嫁探(よめと)めてめんが
 タマクガネ 今宵(コロメ)(ハナシ)面白(ウムシロ)サ スリサーサー

二行目は、どの歌詞をうたう時にもつけられるいわばハヤシ言葉の部分である。
『琉歌百控』以前の成立とされる『屋嘉比エエ四』*12の「久高節」も、

 ○クダカマンギョショガ キョラョパイカマイテ テサヤ タマコカネ
  コヨイノハナシノ エ オモサ ソレサソレ

と記載されている。
 また現行の沖縄の七月エイサーの中にも、

 久高まじゅう主や美らゆうぺとめてめんどよ玉くがに
  卜ナイヌハナシヌ ウームッサスリサーサ
  エイスリサーサー スリスリ
  スリサーサーニイスリサーサー スリスリ*13

とうたわれる唄があり、いずれもハヤシ言葉の部分から沖永良部の「久高まんじょ主」につながることは明白であろう。

(8)坂本節(乾)、坂元節(独・覧)

 「坂本節」(乾)に「徳之嶋」とあり、

 ○坂本のいへやたんちゆ豊まれる
  よゝ清らか一木清の二本

 ○真竹さうん垣や押分て入い
  明てしのはらぬ無蔵か御閏

の二首がみえる。一首目を元歌とし、「坂元ぬいび」といわれる唄が徳之島に伝えられている。同町 の亀徳(古くは秋津(あきちゆ)といった)に通称秋津神社があり、そこは代々坂元姓の人によって管理されているのであるが、そこで旧八月十五夜行われた豊年まつりの唄の一つなのである。次のようにうたわれる。

 〈同地での採集例〉*14
  坂元ぬいぴや だんじゅ(とよ)まれる
  アレよよきゅらが一本(ちゅもと) くぼぬ三本(みもと) ヨンドー

 なお奄美の他地では、現在、大島本島南部と喜界島の一部で採集の網にかかっているが*15、いずれも 「ヨンナ」系のハヤシ言葉を持ってうたわれているのが特徴である。ちなみに、沖縄古典としての「坂本節」にも、「ヨンナー」というハヤシ言葉はうたわれているようである。

(9)古仁屋節(乾)、具仁屋節(独・覧)

 「古仁屋節」「具仁屋節」が同じであるという完全な保証はないが、一応あげておく。「古仁屋節」には「東間切之内古仁屋村」とあり、次の二首がある。

 ○久仁屋のほそなへかなどはたかなちゆて
  脇文子親部とちや添へ吸はまへ

 ○脇文子親部か鍍承切銀
  もるなんらや給れちや添吸主へ

 現在、この古仁屋(現瀬戸内町内)にも、その近辺にも、この曲名の頃、歌詞は残されていない。こ の唄についても沖縄の古典音楽として現行のものをみると「ヨンナ」系のハヤシ言葉がうたわれていることが分る。今日も奄美で別名で呼ばれている何かを指していることは確かであろう。

(10)早雨河節(乾)

 この節には「大嶋」と記されている。現在同名の唄は奄美には見当らない。なお『琉歌百控』には、 他に「天川節」と記された唄があり、この「早雨河節」とどうつながるのか、それも不明である。

二 地名は記されていないが関連ありと認められる唄

(1)作田節(乾・独・寛)、中作田節同)、場作田節(同)、提作田節(同)、早作田節(同)

 「作田節」としてこの五種があげられているが、もともとある一曲のペリエーションであろう。各流、各作田節とも歌詞は全く別とであるが、やはり「作田節」(乾)の次の二首が最も曲名と関連あり、かつ元歌に近いものと推定される。

 ○穂花咲出は塵泥も附ぬ
  白ちやねやなひち畦枕ら

 ○銀春なかい金軸立て
  計てつき余そ雪の其米

 現行沖縄古典音楽としてのこの系統のうたわれ方をみると、

〈作田節の場合〉*16

 ()がしむてたちやが手になれし(オージ)
 ツヤウンツヤウン
 暑さ()だましゆる たゆいなとし
 ツヤウソヤツマウンツヤウ
 署さ()だましゆる たゆいなとし
 ツヤウンヤッマウソツヤウ

 〈早作田節の場合〉*17

 夏の()(アチ)(なさき)かゆわしゆるチョーンチョーン
 手になりし(オージ)の風すだしや

 のごとく、「ツヤウンツヤウン」または「チョーンチョーン」のようなハヤシ詞がうたわれているのがその特 徴である。(全く付かない「場作田」のようなケースもある。)
 この点からみて奄美では「チクテングヮ」「チクデン」「チックンテナ(ふし)」などといわれてうたわれている唄と同系統といえる。
 そのうたわれ方を例示すると、

 〈笠利町用での採集例 八月唄「ちくてんぐわ」とて〉*18

 ちくてんぐわが節やヨー わがこなしうかば
 ヤノヤノヤーノ ヒヤルガヨイサ
 ツエンツエン ヤーツエンヤーツエン
 ヒヤリガツエンヒヤリガツエンヤーツエンヤーツエン

〈和泊町手を知名での採集例 遊び踊りの唄「ちつくんてぬ節」として〉*19

 ちっくんてぬ節やヨー ながればと(ちょ)らさ
 ヒャールヒャールイ
 (ヒャースガヒャールイ)
 あやいヘーい(ちょ)らさヨー あやいヘースリ
 テンテンヨーテンテン シタリガテソテソヨーテンテン

 のようである。このほかに徳之島の夏目踊り唄、諸鈍芝居の中の棒踊り唄としてもうたわれている。
 なお与論で「ぱいちくてん」といわれてうたわれている三味唄も「早作田」の訛であろう。いずれにせよ、これらの現は、うたう人たちによって沖縄の唄とは全くといってよいほど意識されていない。

(2)東熊節(乾・独・魔)

 この唄には出自が何処とも記されてはいないが、かつて世礼国男が、奄美が出自であるとした唄の一つである。*20
 乾柔節流には、

 ○東細曜り我墾ち置ん
  みやこせと踊い我のとめか

ほか二首がのっているが、『屋嘉比工工四』にもある「東小馬睡節」がこの唄であろう。ちなみに、 引用すると、

 ○ヒガシ(コマ)ヲドリ ワガコナチヲジャン ミヤコセトヲ(トリ)
  ワガノ(卜)メガシホラ ジヤンナヤウ

となるが、これと明らかに同系統と糸なされる頃が奄美大島のほんの一部の地域で八月唄の一つとしてうたわれている。

 〈宇検村芦検での採集例「ひがしくま」〉*21

 ひがしくまふどり (わが)くなちうかば
 ハレ大和袖(やまとすで)ふりゃ 吾知(わあし)りやぴらぬヨンノ
 ハレ大和柚ふりゃ 吾知りやぴらぬヨー

〈瀬戸内町池治での採集例 「東くま」〉*22

 東くま踊り ハレ東くみやがれぱ
 はじめうどりヨンド

 歌詞や詞章の歌唱形式上違いはあるが、いずれにも『屋嘉比エエ四』の「東小馬躍節」にある「ヤ ンナ」系のハヤシ言葉がついていることに気付かれよう。
 ただこの頃が奄美出自とするはっきりした証拠はなく、奄美にとっては外来の唄である可能性も多 い。

(3)散山節(乾・独・寛)、元散山節(乾・覧)、本散山節(独)

 このうち「元散山」と「本散山」とは文字だけの違いで全くの同曲とみてよいであろう。そしてこ れは「散山節」の原曲ととってよいものと思う。
 いずれにも、やはり二首ずつの歌詞が記されているが、この曲名と結び付いた歌詞は見当らない。奄美でこれと同系統と思われるのは、大島本島の八月踊りで盛んな「さんぎゃま」とか「さんやま」といわれている唄である。

 〈宇検村湯湾での採集例 「さんやま」〉*23

 さんやまぬ胡弓(きょうきょつ)くゎ
 エーイソレ石ぬ上ぬ胡弓くゎ オセキモチャゲサ
 大和(やまと)がで(とよ)
 エーイソレ石ぬ上ぬ胡弓くゎ オセキモチャゲサ

 このように「オセキモチャゲサ」と付くのが特徴である。前掲の『屋嘉比エエ四』で「本算山節」のうたわれ方をみると、

 ○チカサタルカケテ サヤレユダ(ン)ドモスルナ ササユヤウンナ

とあり、ここでは「ヨンナ」系のハヤシ言葉だが、奄美にも現在、次のようにうたわれる地域があっ て注目される。

 〈瀬一戸内町網之子での採集例 「さんやまっけ」〉*24

 さんやまっげちゅけりちゅけり
 いきょもこにたけりヨー
 いきゃしがうめさと やくいてあうちゃぬうよ ヨンノヨ

 この方が古い形ではないかと思われる。

(4)其寓歳節・其満載節(乾)、其満載節(覧)

 乾柔節流には二つの曲名が並んでいるが発音は同じである。文字の上から万才芸能の流れのように 取られるが、そのはじまりはともかく、「ソノマンザイ」というハヤシ言葉から付いた曲名であることは、間違いない。
 乾柔節流には、

 ○天のふり星や皆か上とてよる
  金三つ星やわ上とてよる

と、もう一首がのるが、うたわれ方を例によって『屋嘉比エエ四』でみると、

 ○ハナサチヤンテヤリ ワヌフシ(キ)オモナ ソノマンザリ

 のようである。
 奄美でも沖永良部島と与論島で「(てん)群星(ぶれぼし)」といわれ、今でもよくうたわれているものがこれに当る。

 〈和泊町国頭での採集例 奴踊りの唄の一つ「天ぬ群星」として〉*25

 天ぬ群星や 他人(ゆそ)が上ど照ゆる
 ソノマンダイ照ゆるサーサッサ
 黄金三星}:や &ruby(わうえ){吾上(くがねみつぶし)どマタ照ゆる
 ソノマンダイ照ゆるサーサッサ

 〈与論島での採集例「天ぬ群星」一名「手酌節」として〉*26

 はがん()さる(うむ)(ざい) 吾ー人(わぬよゆい)飲みゅらい
 シルマンダイ 飲みゅらい
 (かな)(うみ)さとと 寄合(ゆよ)て飲まん
 シルマンダイ 飲まん
 イショシイ イショリガナ ササ

この例からも一見無駄なものにふえるハヤシ言葉が、いかに後世まで残っていくかということが分 るのである。

(5)漢那節(乾・独・寛)

乾柔節流には「金武間切漢那村」とあり、

 ○上に豊まれる漢那のろくもへ
  下に豊まれる川平真山戸

 ○畔越る水やおやければ止る
  我二十比に留のなよめ

の二首が載っている。
この唄は沖縄の七月エイサーの中の一レパートリーとしてもあり、次のようにうたわれる。

 唐船どーいさんてーまん
 いつさん走えならんしやヨーイヤナー
 若狭町村(わかさまちむら)
 瀬名波いたんめ− ハイヤセンスル ヨイヤナ*27

この歌詞の頭をとって「唐船ど−い」とか、前掲、乾柔節流の二首目の頭から「畦越える水」とい う所もあるようである。
 この系統の唄は奄美でも「畦越え」「畦越えるの水」などといわれ、かなり広い範囲でしかもいろ いろな場でうたわれている。

 〈瀬戸内町諸鈍での採集例 諸鈍芝居(しばや)の中の鎌踊りの唄
  「あぶしくえる水」として〉*28

 畔越(あぶしくえ)ろ水や サア延びゃがれぱ止まる
 コノヨーイヤナー
 ()きゃ廿歳(はたち)頃や 止めやならぬ

〈和泊町国頭での採集例 奴踊りの唄「畔越え」として〉*29

 畔越ぬ水やサー うやげれぱ止まる
 ソノヨーイヤナ
 吾廿歳(わがはたち)頃にサー 止まるしのぎ
 サヨー センスル スルリト サーサ
 ハイヤ ハイヤ イシイシ

 このほか、徳之島では座敷での手踊り頃として、また餅もらいといわれる行事の道行き唄としても うたうところがある。沖永良部の和泊町珪布に伝わる貢物(ぐむち)踊りの中の一つ「センスル節」といわれる唄も明らかにこの系統である。

(6)棉花節(乾)

 何処の唄とも記されていない。次の二首がのる。

 ○木綿花作て木綿経懸て
  布清く識は弟か手巾

  ○園苧の中子真白引晒ち
  旅いまへる里か胴衣袴

うたい方は沖縄の古典音楽「木綿花節」から、

 ○はなにないならち ないにはなさかち
  うまんちゅいまちりヨンゾ まふぁだすゆさ
  サヨンゾヨ

のように「ヨンゾ」というハヤシ言葉が入ることが分かる。
 奄美では徳之島の一部にのみ、これと同系統と党しき唄が認められる。

 〈徳之島町山での採集例「木綿花」〉*30

 木綿花木綿やよンジョヨ むてぃくてぃくれぃてぃよ
 ササヨ ササヤロガエー
 いじららん時やよンジョヨ吾花むどぅしよ
 ササヨ ササヤロガニー

 この唄では更に一連の筋立った話がうたわれる。この「ソゾヨー」が沖縄の「ヨンゾー」につなが ることは明らかであろう。むろん同地では他地から移入された唄だとは意識されていない。

(7)作米節(乾・独・覚)

 文字の上から「作田節」と混同しやすいが全く別曲である。『屋嘉比エエ四』に「作田留舞節」と あるそれで、発音上これの方が忠実と思われる。
 乾柔節流の、

 ○今年作たる米やすゝ玉のないさめ
  南の風の押は西の畔し枕ら

 ○西風の押は南の畔枕
  わ嫁たて来すや得米と抱る

の二首が一番、この唄の元歌に近い。
 うたい方は前掲『屋嘉比エエ四』によると、

 ○コトシックルマイヤ ススダマノナリサメ シュンサメ シュンサメ
 〔アポシマクラシヨテ イラナドマチョル ワヨ( )ナテチニスヤ( )マエ( )チョル〕

のごとく、「シュンサメシュンサメ」とあるのが特徴の一つである。
 奄美では徳之島、沖永良部で今も盛んな「作たる(めー)」「シュンサミ」といわれている唄がこれに当る。

 〈徳之島町井之川での採集例 騒ぎ唄「作たる(めー)」〉*31
   今年(ちく)たる米や ハレしィしと玉ぬなりしゅんで
 ヤラチャンド チクタヌメー
 (にし)ぬ風ぬ吹けば ハレ真南(まふえ)ぬ 畦枕(あぶしまくら)
 (はい)ぬ風ぬ吹けば ハレ(にし)ぬ畔枕
 ヤラチャンド チククヌメー

〈和泊町手灸知名での採集例 遊び踊りの中の「作たぬ米」一名「シュンサミ」として〉*32

 今年作たぬ(めー)や しィし玉いないしゅさ
 シュンサミシュンサミ
 ※この採架例では下旬欠落し次に全く別の歌詞がうたわれた。

 前者徳之島のそれは「シュンサミ」のハヤシ言葉は欠落しているが、元歌や曲鯛から沖永良部の 「作たる米」と同じ頂であることは明白である。
 ついでながら徳之島町弁之川では、この「作たる米」と、先に掲げた「畦越え」((5)の「漢那節」の 系統)そして『琉歌百控』には出てこないが「稲摺り節」とが稲作過程をうたったいわば一まとまりの唄と意識されており注目される。

むすび

 以上、十七項目にわたり奄美に関連ある頃を象てきたが、乾柔節流を中心に承た場合、同流にあが っている九十六曲の節のうち、十一曲までがはっきりと奄美出自の唄とされているものであり、もう十一曲が何らかの形でつながりありと認められるものである。合わせて二十二曲となり確率的に二割を越えるものであるが、私たちはこのことを通して、当時、奄美と沖縄とは想像以上に唄の上の交流 があったのであり、かつ現存する沖綱の古典音楽も地方から多くを吸収して成立したものであることをはっきりと知ることができるのである。


*1 『琉歌百控』からの歌詞引用は全て、三一画房版より原文のまま。(但し、旧漢字は新漢字に改めた。)
*2 小論「笠利町用の八月踊り唄」宍徳之島郷土研究会報〉5)に報告のもの。
*3 小論「徳之島の民謡資料②」(〈徳之島郷土研究会報〉4)に報告のもの。
*4 セントラル楽器制作レコード「沖忠重傑作集」より。
*5 小論「宇検村湯湾地区の民謡」(〈民俗研究〉5)に報告のもの。
*6 セントラルレコード「徳久寿清傑作集」より。
*7 芦検民謡保存会発行『芦検八月踊り歌詞集』より。
*8 (4)に同じ。
*9 (3)に同じ。
*10 セントラルレコード「沖永良部民畷傑作集」より。
*11 (10)に同じ。
*12 『屋嘉比工工四』については池宮正治「屋嘉比工工四所出琉歌集」
(〈沖縄文化研究〉1=琉球大学沖縄文化研究所=所収)参照。
以下引用詞章は全て本論文より。

*13 ビクターレコード「沖縄音楽総覧」解説書(一〇七頁)より。
*14 小論「奄美・沖縄におけるヨンナ系ハヤシ詞の歌謡」(〈沖縄文化〉)33・34所収)より
*15 本田硯孝編『瀬戸内八月踊り唄集』など。
*16 首里三ツ星印刷所編集『琉球舞踊一鎖集(ごとくさりしゅう)』より。
*17 (16)に同じ。
*18 (2)に同じ。
*19 (10)に同じ。
*20 世礼国男『奄美大島出自の琉球楽曲』((〈南島〉1所収)より。
*21 (7)に同じ。
*22 (15)に同じ。
*23 (5)に同じ。
*24 (5)に同じ。
*25 (10)に同じ。
*26 久保けんお著『南日本民謡曲集』中「手酌節」より。
ただし記載方法を改めた。

*27 セントラルレコード『沖縄民謡名曲集第一集』より。
*28 小論「曲目よりみた諸鈍芝居の流れ』(〈南島研究〉10所収)に報告のもの。
*29 (10)に同じ。
*30 田畑英勝著『徳之島の昔話』より。著者自身も、山のほか、花徳でも
この唄の存在を確認している。

*31 (6)に同じ。
*32 同地にて伝承者より直接聞書。
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Last-modified: 2013-04-11 (木) 14:32:18 (3116d)